2020.09.03

世界が注目する独立時計師、浅岡肇の時計遍歴をたどりながら「プロダクトとして時計を作る、その原点」

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2009年、トゥールビヨンを完成させ、彗星の如く現れた独立時計師、浅岡 肇。プロダクト&グラフィックデザイナーとして異色のキャリアを積んできた彼の、時計師以前の時代に影響を与えた時計とは?そして次世代の時計師たちへのメッセージとは?実績に裏付けられた言葉は、辛口にして説得力に満ちていた。

浅岡 肇
Hajime Asaoka

1965年神奈川県生まれ。’90年東京藝術大学美術学部デザイン科卒業後、2年弱助手を務め、’92年浅岡 肇デザイン事務所を設立。プロダクトデザインのかたわら、当時まだ馴染みの薄かった3DCGなどの先端技術を身につけ、広告、雑誌などのグラフックデザイナーとしても活躍。2009年春、独学で完成させたトゥールビヨン搭載腕時計を発表。雑誌で大きく取り上げられ話題に。CNCマシンまも自作し、全工程をゼロから手掛けるだけでなく、時計職人的観点とは異なるデザイナーとしての視点からの独創的な作風が、時計業界愛好家から注目を集めている。’13年AHCI (独立時計師アカデミー)準会員、’15年より正会員。

浅岡氏のアトリエにて。浅岡氏のこだわりを詰め込んだ"入門機"として2018年にスタートさせた「クロノトウキョウ」を着用。

「キレイできちっと動く新鮮なもの、祖父の懐中時計はそう映っていました」

懐中時計をベッドに提げて眺めた少年時代

外交官だった祖父の時計が、手元に残っています。祖父はアルゼンチン、イタリア、最後はイランに赴任し、第二次世界大戦が始まって引き揚げてきました。イタリア時代の上司は、イタリア大使だった吉田 茂。イラン時代に、パーレビ国王の結婚式に出席した写真も残っています。

この時計は、祖父が30歳前後の頃、ブエノスアイレスで手に入れたもの。よく競馬に行っていたようで、帰り道にある時計店のウインドウを眺めては「今日勝っていたら買えたのに」なんて思っていたらしい。で、あるとき遂に勝って手に入れ、ずっと使っていた。

祖父は、僕が物心つく前に他界していて記憶はありませんが、この時計は小学生の頃、ベッドにぶら提げて毎日眺めていました。それで時計に興味が湧いたというわけではないんですが、キレイできちっと動く、面白くて新鮮なものと僕の目には映っていました。

中学入学のとき自分の時計として使い始めたのは、シチズンの“ツノクロノ”。これは大学まで使いました。工業デザイナーを目指して東京藝大に入るんですが、当時僕にとって魅力的な仕事は、車、カメラ、時計の3つ。学生時代に影響を受けたプロダクトデザイナーは、月並みだけど、ジウジアーロとかルイジ・コラーニとかシド・ミードとか。大学4年のとき、有楽町のマリオンで見たシド・ミード展の衝撃は今でもよく覚えています。

卒業後は、雑誌や広告のグラフィック、ラグジュアリーウォッチ業界のビジュアルの仕事も随分やりました。1995~96年頃、初めて腕時計もデザインしました。ミッドセンチュリーの家具を扱っていたモダニカの時計です。フィフティーズのデザインのキーワードのひとつに“アトミックエイジ”というのがあるんです。今と少し違って、当時は原子力に対して明るい未来のイメージしかなく、活力の象徴というか、そのコンセプトに合わせたような雰囲気でデザインしました。

この仕事をやってみて、課題が残ったんです。デザインだけをやると、どうしてもイメージ通りにはいかない。いつか違う形で時計をデザインしてみたいなと。そうしている内に、リーマンショックが起こってグラフィックデザインの仕事がすごく減って、暇つぶしに時計を作り始めたわけです。トゥールビヨンが難しいというので、とりあえず腕試しで作ってみようか、という感じでした。まさか時計で飯を食うようになるなんて正直思っていなかったですね。

2008年の夏頃に始めて、大晦日には試運転で動いてましたね。年明けの3~4月ぐらいまでに外装も作って、時計として完成させた。そこまで割と苦もなく。当時よく仕事をしていた時計にくわしい雑誌編集者と、冗談半分で「オリジナルのトゥールビヨンを作って、バーゼルに出して記事にしよう」という話をしていたんですが、彼もまさか実現できるとは思っていなかったようでしたね。

次世代の時計製作者へのメッセージ

時計って、時計以前にプロダクトとしてどうまとめるかという視点がとても大事です。例えば、僕の『TSUNAMI』という時計は、主役がでかいテンプという変わったムーブメントなので、時計全体の佇まいは逆に割と普通な見た目にしている。あれもこれもということをやると、主役がスポイルされてしまう。どう主役を引きたてて、プロダクトとして力強い見せ方にできるか。時計師というキャリアだけだと、なかなかそういう感じにならないかもしれないですね。

最近、次の世代に受け継いでいこうという意識もちょっと出てきました。自分の時計製造に関して、割と包み隠さずWEB上で情報公開しているのもその一環だし、質問されたらコメントを返したりもします。でも、時計作りにトライしている若い人がいっぱいいますけど、率直に申し上げて執念が足りなさ過ぎます。憧れだけじゃなくて、やっぱり本物を見て打ちのめされないと駄目でしょう。スイスの一流の人たちの執念は、みんなすさまじい。心からリスペクトしています。

僕は、基本的に自分が欲しいと思う時計を作っただけなんです、単純に。でも今の世の中って、そういうものづくりをあんまりやっていない。マーケティングに基づいてとか、これが売れ筋だとか、それが逆にものをつまらなくしている。もちろん、実際ものを作ること自体には産みの苦しみはありますが、それ以外の部分は好き勝手にやっているだけだから、簡単なことなんです。

ただ、たぶん僕はものづくりに対して、人一倍執念はあると思います。自分で言うのもなんですけど、僕の場合、最初に作ろうと思うものを非常に高いレベルに置いている。それをどうしても自分で見たい。だから、そこに執念が生じる。理想を手繰り寄せたいんです。

「理想を手繰り寄せたい、だから執念が生まれる」

 

中学入学時に手にしたシチズン"ツノクロノ"
’70年代初頭にデビューしたシチズン「チャレンジタイマー」、通称ツノクロノ。大学時代まで愛用。「既に世の中はクォーツの流れでしたが、これは自動巻き。子どもの頃から工作好きで自作をよく撮影していて、露光時間計測の必要からクロノが欲しかった」

’90年代半ば、腕時計デザインを初めて手掛けたモデル
LAが本店のミッドセンチュリー家具店、モダニカ。当時目黒にあった東京店のためにデザインしたクォーツウォッチ。回転するケースの構造がユニーク。

2009年にゼロから完成させたトゥールビヨン搭載腕時計
2009年に完成させたトゥールビヨンをリファインし、銀座の和光で販売された第1号モデル。現在はコレクター所蔵となっている。天才時計師誕生を印象づけた記念碑的1本。

<B>中学入学時に手にしたシチズン"ツノクロノ"</B><BR>’70年代初頭にデビューしたシチズン「チャレンジタイマー」、通称ツノクロノ。大学時代まで愛用。「既に世の中はクォーツの流れでしたが、これは自動巻き。子どもの頃から工作好きで自作をよく撮影していて、露光時間計測の必要からクロノが欲しかった」
<B>’90年代半ば、腕時計デザインを初めて手掛けたモデル</B><BR>LAが本店のミッドセンチュリー家具店、モダニカ。当時目黒にあった東京店のためにデザインしたクォーツウォッチ。回転するケースの構造がユニーク。
<B>2009年にゼロから完成させたトゥールビヨン搭載腕時計</B><BR>2009年に完成させたトゥールビヨンをリファインし、銀座の和光で販売された第1号モデル。現在はコレクター所蔵となっている。天才時計師誕生を印象づけた記念碑的1本。

 

高校生の一人娘に渡したい時計も考えている。「最初にデザインした『モダニカ』の時計は、手元に自分の1本しか残っていなかったので、ネットオークションで見つけたときに何本か買って、娘に渡す分も取ってあります。でも今なら『クロノトウキョウ』かなあ。個性が強いデザインの時計って、目先は変わっていても割と飽きやすい。シンプルで装着感もよく、使っていく内によさがどんどん分かってきて、長く使ってもらえる時計という視点で、僕はデザインしています。そのためにはバランスを突き詰めていくことが大切。この時計を娘に託したら、日々使いながらそれを感じて欲しい」

 

[時計Begin 2020 SUMMERの記事を再構成]
写真/山下亮一 文/まつあみ 靖

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