2020.09.10

スイス時計産業の救世主、スウォッチ グループの創業者「ニコラス G. ハイエック」【松山猛の時計業界偉人伝】

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松山さんがこれまで出会った、時計界の偉人たちとの回想録。今回は、スウォッチの生みの親でもあるニコラス G.ハイエック氏。

クォーツ・ショックから、時計王国スイスを救った人物

ニコラス G. ハイエックは、1970年代初頭にスイスを襲った、クォーツ・ショックの時代に、救世主として時計世界に登場し時計製造の王国だったスイスを復活させる原動力として、業界を牽引してきた人物として知られる。

日本発のクォーツの大波がスイスの時計産業界に襲い掛かかり、壊滅的といわれているダメージを与えたのち、ハイエック氏はそのクォーツを用いた、廉価でデザインに優れた“スウォッチ”を世に送り出し、それがたちまち大ヒット作となり、世界を席巻するまでになり、スイスという時計王国のステイタスが守られたのは言うまでもない。

毒を以て毒を制すというか、まるで合気道の技のように、世界の潮流という力をうまく利用したものだと、今さらながら感心する。

世界の目利きも認めたスウォッチの生みの親

スウォッチと言えば、まず思い出すのは、ワイン世界の頂点の一つであるシャトー・ラフィット・ロスチャイルド当主の、エリック・ド・ロスチャイルド氏にインタヴューした時、彼が身に着けていたのが、ごくごくシンプルでおとなしいデザインの、発売された当時のスウォッチだったことだろう。

もちろん彼のような立場の人が、いかにも目立つ時計をしていると、いろいろ危険があるというのも事実らしいのだが。世界の富豪までが、その真価を見極めてスウォッチを身に着けていたことが、僕には面白かったのだ。それまでのゼンマイと歯車で動かしていた時計の世界が革命の時を迎えた。新しいタイミングコントロール・システムである水晶振動子を用いた、クォーツ時計の研究はスイスやドイツでもかなり進んでいたが、なかなかそれを小型化し、腕時計サイズに作ることができなかった。

その難問を日本のセイコーの技術陣がステップモーターのコイル、ステータ、ローターを分散させて配置したことで解決したのだが、そこには日本的な幕の内弁当の発想があったというのは、有名な話だ。

つまり西洋料理のようにメインディッシュ的な大きな一つのモーターで、すべてを動かそうとするのではなく、細々としたおかずの集合体として発想し、動力源を分散したという話を聞いたことがある。

僕が初めてスイスに足を踏み入れた1981年頃は、スイスでもクォーツ腕時計の開発が盛んで、僕を招待してくれたASUAGという、時計会社の連合傘下の、ロンジン、ラドーなどでも、クォーツ時代に乗り遅れないように、というムードが漂っていた。

機械式時計の魅力に取りつかれていた僕にとっては、それはいかにも残念な時代の潮流だったが、それでもロンジンへの訪問では、最後のスケルトン職人といわれていた人の仕事ぶりを見せてもらい、またラドーでは彼らが独自開発したスクラッチ・プルーフといわれた耐傷性素材の時計ケースを見た時のことなどを、今も鮮明に思い出す。

スイス時計産業の巨大コングロマリット誕生の立役者として

そのASUAGとオメガを頂点とする時計製造会社のグループSSIHとの合併を成し遂げたのも、業界のカリスマとなっていくニコラス G. ハイエックその人だったのだ。

1970年代に入ると、クォーツ・ショックのために、数多くの時計製造会社は時代遅れとされ倒産を余儀なくされ、4万人とも言われる多くの時計技術者もその職を失ってしまったと聞く。
僕が好きなブランドの一つで、ジュネーブに本拠を置いていた〝レコード・ウォッチ・カンパニー”も、スイス時計の歴史から、その足跡だけを残しながら、表舞台から消えていった。

そして多くの時計製造機械なども売りに出され、それらがスイス国外に流出していったのだとも、ヴェテランの時計技術者から聞いたことがあった。このままではスイスの産業の花形であった、時計の世界が崩壊してしまいそうだという、危機感を持った銀行家たちの連合が、時計産業界を再活性させる切り札として、藁をもつかむような思いで白羽の矢を立てたのが、1980年代の初め、当時その実力を広く知られ始めた、コンサルティング会社、ハイエック・エンジニアリングの、ニコラス G. ハイエック氏だったというわけだ。

こうしてオメガを頂点とし、ロンジンやティソ、ラドー、ハミルトンなどの数多くの時計ブランドを擁する巨大な時計製造グループが、1983年に設立され、そのグループ名はSMHとなったのだった。SMHとは、Société de Microélectronique etd’Horlogerieの略であり、訳すならばスイス・マイクロエレクトロニック時計総連合といったところだろうか。

その社名には、SMHはまずクォーツ時計を作り、スイス時計産業の巻き返しを図ろうとしたことがうかがえる。そしてさまざまな時計ブランドの連合体としての知恵と技術から生まれたのが〝スウォッチ”だったと言える。
徹底的に時計の部品数を少なく設計し、コストダウンを図り、シンプルイズベストといった時計を作ったのがその戦略の第一段階。

やがて余力が生まれるとその外装デザインを重視し、スイスお得意のグラフィックな世界を時計のデザインに持ち込むと、ポップなものを好む若い世代に、おおいに受けていくのだった。

若い女性が好むようなレースをあしらったようなデザインも多く、アクセサリー感覚で腕時計が選ばれる時代が生まれたのだった。

スウォッチの多様なデザインに人気が出た頃、ミラノのモンテナポレオーネ通りにあったスウォッチショップの前に、新発売される人気モデルを狙って、チンピラもどきたちが陣取っていた光景が目に浮かぶ。

あれはきっと新発売のスウォッチをいち早く手に入れ、プレミア価格がつくと転売して儲けようとしていたに違いないのだった。

両腕に傘下ブランドの時計を着用する強烈な個性とカリスマ性

さてそのスウォッチを生み出し、オメガを頂点とする巨大時計産業グループを率いるようになったカリスマ的人物と、初めて対面したのは偶然によってだった。SMHジャパンの依頼で、週刊誌の連載取材のためにスイスに出かけた時、オメガに行くと、社長がアジアへ出張で不在ということで、代わりに取材に応じてくれたのが、なんとハイエック氏なのであった。
当時はまだグループの傘下に、ブランパンやブレゲは入っていない時代で、ハイエック氏は大きな黒板にピラミッドを描き、その頂点にオメガがあるのだと話した。
彼にとってはSMHというグループの頂点に、王様のように君臨しているのが、オメガという歴史あるブランドだったというわけだろう。
その頃ハイエック氏は、グループの傘下にあるブランドの時計を何本も腕に着けているので話題となっていた。

そして、やはり目の前のハイエック氏は、ほんとうに両腕に何本もの時計をしているのだった。そしてその体からは圧倒的なオーラを発散しまくっていたのが非常に印象的であった。

やがてSMHは、スウォッチ グループと改名され、その傘下にブランパンやブレゲ、ジャケ・ドローといった、高級時計ブランドが収まっていき、また時計ムーブメント製造会社のETA社や、クロノグラフ・ムーブメント製造の老舗レマニア社、時計心臓部のひげゼンマイを作る会社なども、そのグループの一員となりスイス時計業界のジャイアント企業となっていくのだった。

彼の人となりをそんなに深くは知らないが、その存在感の圧倒的だったことは、例えばブランパンとともに傘下に入った、もう一人の大物であるジャン‐クロード・ビバー氏さえ、ハイエック氏の前では直立不動といった感じで接しているのを何度も目撃したからだ。

まるで偉大な親父さんを前にした息子の一人のように。
ニコラス G. ハイエック氏は1928年に中東のレバノンで誕生した。レバノンのベイルートという港町は、中東のパリと称された町で僕が旅した1972年頃は、あの不幸な内戦の前だったから、まだ海岸線に沿って豪華なリゾートホテルが建ち並び、その背後にエキゾティックなアラビア世界の旧市街が広がっていて、眼前の濃紺の地中海が美しい街だった。

そして地中海の貿易港としても栄え、ヨーロッパとアラビア世界の接点となり、本当にさまざまな人種が一つ屋根に暮らしていたし、その中にはアルメニアや近隣の戦争から逃れ、この地に身を寄せた人なども多かった。余談になるがレバノンの男たちは、石畳の町を、よく手入れされた粋な靴を履いて闊歩していた記憶がある。

いつも最良以上のものを導き出す能力に恵まれた彼は、その後継者となる人々を育て上げてきた。今そのグループを引き継いだ家族の中でも、孫にあたるマークA. ハイエックの活躍を見れば、偉人の遺伝子が次の時代へと受け継がれていることがわかるだろう。

忘れることができないのは、天才ブレゲの遺作である「No. 1160〝マリー・アントワネット”」を現代のブレゲが総力を結集してその復刻版を完成させたことだろう。

あの発表の時の、ハイエック氏の笑顔はそれはそれは素敵なものだった。


Nicolas G. Hayek (ニコラス G. ハイエック)

1928年生まれ。スウォッチ グループ創業者であり、スウォッチの生みの親。グループ傘下のブランドの時計を両腕に複数着用する強い個性と経営手腕で、クォーツ・ショックで壊滅状態にあったスイス時計産業を救済した時計界のカリスマ。写真は、2008年の「No.1160“マリー・アントワネット”」の発表時。印象的なデザインの化粧箱は、なんとアントワネット王妃自身がその下で憩ったというヴェルサイユ宮殿のオークの木から作られている。2010年逝去。

 

[時計Begin 2020 SUMMERの記事を再構成]

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