2021.08.24

古典を愛し、機械式時計の復興を支えた人物とは【松山猛の時計業界偉人伝】

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Gerd-Rudiger Lang ゲルト・リュディガー・ラング
1943年ドイツ・ブラウンシュバイク生まれ。’60年代にホイヤー社、ブライ トリング社に所属し、1983年ミュンヘン近郊のカールスフェルトにクロノ スイス社を創業、2012年まで社主を務める。オニオン型リューズ、コイン エッジベゼルなど、古典的な意匠要素を現代の時計に昇華させた。

古典を愛し、機械式時計の復興を支えた人物

松山さんがこれまでに出逢った時計界の偉人たちとの回想録。今回は、クロノスイス創業者のゲルト・リュディガー・ラング氏。

 

機械式時計が苦境にあったクォーツショックのさなかに

ゲルト・リュディガー・ラング氏は、言わずと知れたクロノスイスの創業者だ。彼もまた機械式時計が危機に瀕していた1970年代に、その時計機構の素晴らしさを守り抜こうと、懸命に仕事を成し遂げた功労者の一人である。

機械式腕時計の故郷であるスイスですら、多くの時計製造会社がクォーツの波に乗り遅れてはならぬと舵を切っていた時代に、古典的な機械式時計を専門に作る会社をスタートさせるのは、大きな賭けであっただろうと想像する。

だがその賭けは成功を収めた。当時の時計市場には、ラング氏が作り出そうとしていた、クラシックでありながら、最新のスペックに裏打ちされた、魅力的な機械式時計が少なく、ちょうど始まっていたヴィンテージ時計ブームを背景に、機械式時計を求める、時計ファンの要望に応える形で、クロノスイスの評判は高まったのだった。

まず最初に彼が発表したのは、端正な雰囲気のレギュレーター・タイプの腕時計だった。

次いで発売されたクロノグラフとカレンダー機構を持ち合わせる時計のシリーズでも、機械式時計ファンの心をしっかりと掴むことができたのである。

1983年、ミュンヘン郊外にクロノスイス社創業

時計王国スイスからも近い、ドイツの古都ミュンヘン郊外に、彼がクロノスイス社を立ち上げたのは、まだ機械式ルネッサンスの声が聞こえ始めようとしていた、1983年のことだった。

僕がその存在を知ったのは、彼が作り出した、シリウスと名付けられたレギュレーター・ウォッチの写真を、雑誌で見たからだったと思う。

その頃レギュレーター・ウォッチは、時計師が愛用する時計である、という記事の記述を読み、なるほど縦一線状に、時、分、秒の針が並んだその時計は、現在時間を確実に認識できる機構だなと、感心したものだった。

そしてその時計の佇まいもまた良かった。コインエッジ・ケースやポケットウォッチ時代を彷彿とさせてくれる、丸い大きなリューズはオニオン型リューズと呼ばれ、その頃のクロノスイス時計の代名詞となっていたものだ。

今でこそレギュレーター・システムの時計は、いろいろな時計メーカーから発売されているが、1980年代にはどこもあまり製造していない、珍しいものだったからである。

シリンダー型のケース、コインエッジベゼル、大ぶりなオニオン型リューズと非常に古典的なデザインを現代の腕時計に昇華させたクロノスイス。特許取得のビス留めのラグは、ほっそりと非常にクラシックでありながら、可動域が大きく装着感も抜群だ。

社名「クロノスイス」に込められた想いとは?

隣国ドイツに会社がありながら、その社名にスイスの文字があるのも興味を引いたのだが、彼の経歴を知ると、その謎は解けたのだった。

1943年にブラウンシュバイク郊外で生まれ育った彼は、ブラウンシュバイクの学校を出た後、16歳という若さでその町の”ジャウン”という宝飾店の時計見習い職人となる。

ドイツという国では古くから専門家や職人を生み出す、マイスター制度というものがあり、学問の道に進むもの以外は、徒弟制度の一員としてスキルを磨く伝統があるからだ。

彼が選んだ仕事が、スイス製のクロノグラフなどの機械式時計の修復にかかわるもので、特に当時人気があった”ホイヤー社”のクロノグラフとの出会いが、彼の人生において確たる指針となったと聞く。

ドイツの職人世界には『旅人の年』という制度、というか習慣があり、これは一定の年月を最初の職場ですごしたのち、ほかのマイスターのところで腕を磨き直すというものらしい。

ラング氏も1964年にスイスに行き、当時クロノグラフ製造の最前線のブランドであった”ホイヤー社”に入社し、クロノグラフ製造の世界で修練を重ねることになった。

さらにホイヤーの後、1969年から”ブライトリング社”にも勤め、クロノグラフの世界をさらに極めることとなったのだ。

彼が努力を重ねた時代は、奇しくもクォーツショックの時代と重なるのだが、ドイツに帰国した後にも、機械式時計への情熱は消えることなく、いや、ますます深まっていったのに違いない。

1974年に彼は”ホイヤー社”のドイツ・ブランチのチーフに就任し、それは1980年の閉鎖まで続いた。

1980年にはマスター・ウォッチメーカー試験に合格、いよいよ彼は自分のブランドの設立のための準備を始めた。

彼が本拠を構えたのは、ミュンヘン郊外のカールスフェルトという、緑の多い素敵な環境であった。

そして、クラシカルな意匠のレギュレーターを発表し、たちまち機械式時計ファンの注目を浴びることとなったわけだ。

ブランドが軌道に乗り始めると、得意分野であるクロノグラフや、それにカレンダー機構を加えた、複雑時計をシリーズ化していく。

’90年代に訪れた本社アトリエでの出会い

1990年代の後半に、そのカールスフェルトの本社アトリエに招かれ、訪ねて行ったことがあった。

その小さな町はのどかで、緑豊かな環境の中にあり、きれいな水が流れる小川のほとりの宿に泊まり、案内されたアトリエでは、何人もの時計師や女性の組立工が、手際よく時計をアッセンブルしているのを見学した。

そしてラング氏とともに散歩をして、おいしいランチを用意するレストランにも行ったものだった。

散歩の途中に、町の広場のようなところに、たくさんの飾りのようなものがついた、ポールがあるのを見かけたので、これは何ですかと聞くと、ドイツの町には、その町が誇る様々な仕事を顕彰するために、仕事ごとのシンボルを、こうしたポールにつけるのですよ、という答えだった。これは素晴らしい慣習であり、またドイツの人々の、職業への感謝やリスペクトの気持ちが伝わるものだと感心したものだ。

またミュンヘンの町にラング氏と出かけて、彼が親しくしているクロックメーカーの、アーウィン・サトラーのアトリエにも案内してもらったものだった。

その時僕がクォーツショックの時代に消滅してしまった、ジュネーブの時計会社”レコード”社の、カレンダー・クロノグラフを着けているのを見たラング氏が、”レコード”の時計が好きなのならと、1940年代初頭のものだと思われる、ヴィンテージのスモールセコンドを、気前よくプレゼントしてくださった。その時計は、今も僕の大切なコレクションである。

名著『クロノグラフ・リストウォッチズ・トゥ・ストップタイム』

ラング氏の豊富な経験と、深い研究の成果として結実した一冊の書物がある。

IWCの技術者ラインハルト・マイス氏との共著『クロノグラフ・リストウォッチズ・トゥ・ストップタイム』という、大冊の研究書がそれだ。

僕もこの本でクロノグラフ腕時計の歴史や、変遷、各時計メーカーによるバラエティ豊かな世界を学ぶことができたものだった。

クロノグラフは、複雑機構の中でも実用性の高い機能で、コンピュータ以前の時代には、時間の経過を知り、また生産性の計算、スポーツの計測などにもよく使われるものだった。

そして何より複雑に構成された、スタート、ストップをつかさどるレバーやアーム、1分ごとに積算の針を動かすための、ハート型のカムなどの動きは、シースルーになった時計の場合、その微妙な動きを見つめるのが楽しい。

ラング氏の”魂”が今も宿るクロノスイスの時計作りクロノスイスは2006年に、新しいアトリエを構え、当時日本における輸入元であったワールド通商とともに、日本の時計ジャーナリストを招待してくれた。折しもミュンヘン名物のオクトーバーフェスの時期であったため、ラング氏以下、クロノスイスの人々と共に、巨大テントでビール三昧を楽しんだのは、今も楽しい思い出となっている。

2012年に後継者がいなかったことや、自らの年齢を鑑みてラング氏はリタイアを決め、新しい経営者はクロノスイスの拠点を、スイスのルツェルンに移したが、今もラング氏の開発した時計作りの遺伝子を感じさせる時計を作っている。

機械式時計のルネッサンスを支えてくれたゲルト・リュディガー・ラング氏もまた、偉大な時計世界の偉人の一人なのである。

 

[時計Begin 2021 SUMMERの記事を再構成]

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