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2025.08.31
エルメス・オルロジェの工房に突撃取材! エルメスの「時を止める」魔法とは?
時計は本来、時間を表示するための道具。ところが、今年エルメスが発表した新作「アルソー タンシュスポンデュ」は、なんと「時を止める」ことができる“夢の時計”。この時計はどこで、どのように作られているのか? どんな考えから生まれたのか? 時計工房と製品責任者に直撃取材した。
↓時分針が12時周辺の「仮想の時間」へ!?
↑日付表示も消えた!?
造形も美しい……自然光がふりそそぐ工房
エルメスの工房を訪れてまず感じたこと、そして、何よりも印象的だったこと。それは「どこでも光に包まれる感覚がある」点だ。工房は中央が吹き抜け構造で、ガラスの天井からはすみずみまで惜しみなく自然光が降り注ぐ。昔、時計師は天窓のある屋根裏部屋で、自然光に包まれて仕事をしていた。自然光はどんな光よりも〝人に優しい光〞であるからだ。そんな古くからの情景を辿るかのように、本工房でも職人の職場には、必ず自然光が差し込むようになっているという。

エルメス・オルロジェ(オルロジェとはフランス語で「時計」という意味)の工房があるのは、スイスの時計製造の中心地・ビエンヌの近く。実は筆者はこの美しい工房ができた1990年代に一度、取材に訪れたことがある。ムーブメントのマニュファクチュール化など、製品は当時と比べると劇的な進化を遂げていた。
“時を止めても時は動いている!?” 独創的すぎるムーブとは?
光があふれるエルメスの時計工房。そこでは上に掲載した「アルソー タンシュスポンデュ」をはじめ、さまざまなモデルの組立作業が行われていた。実はこの「アルソー タンシュスポンデュ」には歴史があって、2011年に同じ「時を止める機能」を備えた最初のモデルが発表・発売されている。つまり今年のこのモデルは、ムーブメントを中心にさまざまな部分がより魅力的になった、その〝進化版〟なのだ。その14年後の今年、この「タンシュスポンデュ」をあらためて新作としてリリースしたのは、エルメスの時計作りをしている人たちが、この「時を止める機能」を大切に思っているからに他ならない。その理由は次のページ、クリエイティブ・ディレクターのフィリップ・デロタル氏に語ってもらうことにして、どんな仕組みで「時を止めて」いるのかをご説明しよう。

タンシュスポンデュ機構は針の付いた歯車を動力から切り離すスネイルカムと、針を仮想の時刻に動かすコラムホイールとレバーで構成される。基本メカニズムは2011年のアジェノー製モジュールと変わらない
時計の針が動くのは、針のついた歯車が動力源である主ぜんまいからエネルギーを受けて回転しているから。ふつうの時計では、針がついた歯車はいつも隣の歯車と噛み合っている。そして時針は12時間に1回転、分針は60分で1回転、秒針は60秒で1回転と、回転スピードはそれぞれ違うけれど、いつも回転している、というわけだ。
そして「タンシュスポンデュ」には、時針、分針、文字盤5時位置にある日付針とつながる3つの歯車がある。 「タンシュスポンデュ」のムーブメントが普通と違うって「時を止める」ことができるのは、この3つの歯車を一時的に主ぜんまいの力でいつも回転している隣の歯車から切り離す、スネイルカム(かたつむり型のカム)を使った一種のクラッチ機構があるからだ。
この新作から文字盤の一部がシースルーになったことで、メカニズムの一部が鑑賞可能に
9時位置のプッシュボタンを押すと3つの歯車はいったん切り離されて、時針と分針は12時のインデックスをはさんだ不思議な位置に移動。そして日付針はその姿を隠してしまう。ただそれ以外の歯車は、そのままいつも通りに動いて〝時を刻み続けて〟いる。そして9時位置のボタンをもう一度押すと、3つの歯車が「時を止めたときの時刻」ではなく、現在時刻の位置で噛み合って再び動き始める。これが〝好きなときに時を止められる〟、まさに魔法と呼びたくもなってしまう、「タンシュスポンデュ」のムーブメントの秘密なのだ。
キーマンに訊く。「エルメスはなぜ時間を止めた?」
エルメス・オルロジェ クリエイティブ・ディレクター
フィリップ・デロタル氏

フランス・ブザンソン時計学校を卒業後、いくつもの名門時計ブランドの開発責任者を経て2009年にエルメスに入社。マニュファクチュール化や複雑時計開発を推進し、時計事業を発展させた立役者だ。
「時を止める時計『タンシュスポンデュ』のアイデアは、エルメスにしか作れない、新しい種類の時計を作ろうという話し合いから生まれました。その中で『少しの間でも、時間を止められたら』というアイデアが出てきたのです。そして複雑機構開発の第一人者、ジャン・マルク・ヴィダレッシュがこの『時を忘れる』メカニズムを開発してくれました。時間に追われて生きることは、とてもストレスフルなこと。この時計機構は"時間に追われるストレス"から、一時的ですが私たちを解放してくれます。エルメスの時や時間に対する哲学的、文学的な考えを反映したこの時計は"いちばんエルメスらしい"時計のひとつ。私のこれまでのエルメスのキャリアの中で最も思い入れのある製品のひとつです」

【エルメス/アルソー タンシュスポンデュ】9時位置のボタンを押すと針が12時周辺の「仮想の時間」に移動。日付表示も消える。もう一度押すと現在時刻に復帰する。自動巻き、18KPGケース、アリゲーターストラップ。3気圧防水。576万4000円。発売中。

9時位置を押すと時間が止まる!
忘れてはいけない、息が止まるほど美しいレザーベルト

細かく細かく手縫いで仕上げていく

ステッチもコバもさすがの美しさ
この工房では、時計の組立に加えて、エルメスの革職人によるレザーストラップ&文字盤の製作も行われている。アリゲーターやカーフの「バレニア」など、メゾンが誇る最高品質の革から作られるストラップの製作工程は、素材である革の型抜きから縫製、仕上げまで約20工程にも及ぶが、すべてこの工房で行われている。しかも、ほとんどが職人の繊細な手作業。このストラップ作りで特に印象的だったのは、手間を惜しまず最善を追求する姿勢。肌に当たらぬようハンマーで叩いて縫い目を潰し、さらにコバ(革の端)にヤスリを掛け、熱いコテを2度、温度を変えて当ててなめらかに。さらに2つのベルト通しの長さを直感で正確に決め、素早く正確に縫い付ける。その手際の良さも「魔法」のようだ。



代表作の複雑時計たちもこの場所で完成する
軸トゥールビヨンとミニッツリピーター、2つの複雑機構を搭載した昨年2024年発表の限定超ハイコンプリケーションモデル「アルソー デュック・アトレ」を除けば、複雑時計からシンプルなものまで、エルメスの時計は、ほぼすべてこの自然光があふれる美しい工房で作られている。

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この工房ではスイスの時計作りの伝統と最新の組立ツールが共存している。もちろん分業化されている工程もあるが、組立作業は基本的に時計師ひとりひとりが担当。そのため、ムーブメントや部品を〝流す〟コンベアのような設備は導入されていない。その代わり、時計師ひとりひとりに充分なスペースが用意されている。その一方で最新機器も存在。組立作業の中でも力の加減がとても難しい「針付け」を適正な力で行える[1]の「針付け装置」や、ムーブメントのネジを適正な力で締めることができるトルクレンチ機能を備えたドライバーなどが導入されている。
取材時は新作「アルソー タンシュスポンデュ」に加えて、スポーツモデルの「エルメスH08」([1][2])、独創的なダブルムーンフェイズ機構を備えた「アルソー ルゥール ドゥ ラ リュンヌ」([3][4])、ジェローム・コリヤールのデッサン《乗馬の世界地図》のモチーフにインスパイアされた、文字盤の中を時分を表示するインダイアルが都市名とともに周回する「アルソー ル タン ヴォヤジャー」([5][6])、やはりタンシュスポンデュ機構を備えた新作「エルメス カット タンシュスポンデュ」([7])の組立、仕上げ、出荷の準備作業が行われていた。美しい時計は美しい場所でこうして生まれてくるのだ。
[時計Begin 2025 SUMMERの記事を再構成]
※表示価格は税込み