2019.08.31

【松山猛の時計業界偉人伝】アカデミーを創設した独立時計師のパイオニア「スヴェン・アンデルセン」

松山さんがこれまで出会った、時計界の偉人たちとの回想録。
今回は、独立時計師の草分け的存在で、永久時計を得意とするスヴェン・アンデルセン氏。

独立時計師の先駆けとなったのは、やはりその人スヴェン・アンデルセンに違いない。

時計企業に属することなく、個人のアトリエで時計を作る、独立した時計師という存在を初めて知った時から、スヴェン・アンデルセンの名は僕の記憶に刻まれたのだった。

それは1980年代の半ば頃のことで、僕の時計に対する興味がいよいよ深まり始めた時代であった。彼以前にも時計会社を退職した後に、余技として時計を作る人や、時計の修理工房などを営みながら、自作の時計を作る人はいただろう。けれど、若くして企業から独立して、自分のアトリエを構え、コレクターなどを顧客として、ワンオフの時計を作る時計師がいるというのは、目から鱗のような話で大いに興味をひかれた。

彼の時計の写真を初めて見たのは、偶然知った時計専門のオークショナー“アンティコルム”の小さな緑色の表紙のカタログの誌面だったように記憶する。その当時から腕時計の世界で人気の高かったロレックスや、あの時代ジュネーブ御三家といわれていたヴァシュロン・コンスタンタン、パテック フィリップ、オーデマ ピゲなどの、さまざまな時計、特にコンプリケーションといわれる、複雑機構を持つ時計と並んで、それまで知ることがなかった、個人名を冠した時計があることに驚いた。

それはクラシックなデザインのパーペチュアルカレンダーウォッチで、はるか昔のブレゲのポケットウォッチのような、ギョシェ加工の文字盤を持つものだった。その文字盤の上部に扇形のインジケーターがあり、針がレトログラードする日付表示を持つ。そして右下に月、左下に曜日、さらに6時位置にムーンフェイズのインジケーターがある、アシンメトリカルデザインの時計だった。

アンデルセンという名前から察するに、この人が北欧のデンマークの人らしいことはわかった。しかし複雑時計の故郷であるスイスから遙か離れたデンマークで、このような素晴らしい時計を作る人がいるのだろうか、という疑問もわいた。しかしその疑問もすぐに氷解する。なぜならそのアンデルセン氏がどうやら、ジュネーブにアトリエを構えていることがわかったからだ。

アンデルセン時計の現物を見たのは、表参道に店を構えていた“シェルマン”の店頭ではなかっただろうか。そのパーペチュアルカレンダー時計は、ケース径が40㎜に満たない小型のもので、緻密な作り込みは、さすがにコレクターが注目するものだと感心した。のちにその設計はショパールに採用され、コレクションを飾ることになる。独立時計師たちは自分で製作もするが、デザインや特許を、大手時計会社に提供し、収益を得るということもしているのだ。

1991年に、世界文化社から出版された、世界の特選品『時計大図鑑』の取材でスイスに出かけ、折よく開催されていたバーゼルフェアを訪ねることができた僕は、その前年に知り合うことができたフランク・ミュラーによって、アカデミーのメンバーたちに迎え入れてもらった。

 

2004年にバーゼルで発表されたワールドタイム。国際標準時制定120年を記念した限定モデルだ。パーペチュアルカレンダーと並び、ワールドタイムにも傑作が多い。こちらは120本が限定で製作された。

AHCIアカデミーとは、アカデミー・オルロジュリー・デ・クリエチュール・アンデパンダン、つまり『独立クリエーターによる時計師の学会』という時計師の集まりで、1985年に、スヴェン・アンデルセンとヴィンセント・カラブレーゼによって創立された。彼らのブースは1号館の奥にあった5号館にあり、そこは時計を愛好する人々が、今年は何か新しい発明を含んだ、面白い時計はないかと、好奇心いっぱいに集うサロンとなっていた。

バーゼルフェアというのは、もちろん時計会社にとって年に一度のビッグ・ビジネスチャンスだから、多くの来場者はそのために集まってくる。しかし世の中には商売抜きの、創造性に満ちた時計の世界を楽しみにしている人がたくさんいると、アカデミーのブースは語っていたのだ。

その時代から世界各国で出版され始めた、時計専門誌の記者や出版社の社主、時計コレクターとして世界的に有名な人々、また少し変わった時計を自分の店に展開したいと思う時計店の人々など、さまざまな時計人士がそこに集い、情報交換をし、また時計師に直接時計を注文する。そんな会場でアンデルセンとカラブレーゼの二人は、メンバーの中心としていろいろ気を配っていた。ありがたいことにアンデルセンやフランクによって、僕の人脈はますます広がり、それ以降さまざまな時計関係者への取材がスムースになったのだ。

僕たちの誌面のために、その日集合写真撮影に集ってくれたのは、マン島から来た、ブレゲ研究家にして時計製作者のジョージ・ダニエルズ、黒い森でオルガン・クロックなどの大型時計を作っているマシュアス・ネシュケ、オランダで天文時計を作っているクリスチャン・ファン・デルクラウ、ジュネーブ郊外で曲線を組み合わせたオブジェのようなクロックを製作しているカゼス、フランク・ミュラー、ヴィンセント・カラブレーゼ、フランソワ・ポール・ジュルヌ、ポール・ゲルバー、レオナルド・スピネリ、そしてアンデルセンなどの初期メンバーの面々だ。

彼らのその後の活躍ぶりや、時計世界に与え続ける影響力の大きさは言うまでもないだろう。しかしその才能の素晴らしさを見抜き、一つの集団としてオーガナイズするという、アカデミーの役割は相当大きなものだったと思うのは僕だけではないだろう。一人一人の才能だけでは活躍の幅は小さいだろうが、アカデミーとしてまとまったからこそ、その力が増幅されたといえるだろうから。

スヴェン・アンデルセンという人は、1942年、第二次世界大戦中のデンマークに、農家の子どもとして生を受けたそうだ。大自然の中で、たくさんの家畜動物とともに生活していた少年は、さまざまな工作に夢中になり、創造的な遊びを好むようになった。やがて15歳となった時、人生の進路を決める彼の決断は、手に職能を持つ職人となることだった。そして彼はコペンハーゲンの時計工房に弟子入りすることとなった。

昼と夜を分けて表示する時計
センターを挟んで長さの違う1本の針が、1時間ごと正時にジャンプして昼夜の「時」を表示するアンデルセンの得意とするモデル「ジュール・エ・ニュイ」。こちらは2005年のバーゼルで発表されたもの。「分」表示は6時位置のサブダイヤルで表示する。

 

デンマークは海洋国家であり、ヤーゲンセンなどの高精度な海洋時計を作る人物を輩出した、時計の国でもあった。その時計工房で彼は、時計修理などを通じて時計について学び、4年間の修業の間に、英語やドイツ語を身につけたという。

そして大きな目標となった、時計の国スイスへと旅立ち、ユングフラウ・ヨッホなどの、アルプスの高山の麓の、風光明媚な観光都市ルツェルンにある、時計店の老舗“ギュブラン”に職を得る。彼は時計師としての力量とともに、マルチリンガルな語学の才能により、さまざまな言語の人々を接客して、経営に貢献したのだと聞く。ギュブランのアトリエでは、有名ブランドの時計以外にもオリジナルの時計を昔から作り続けていて、ミニッツリピーターやパーペチュアルカレンダーなどの複雑機構を持つ腕時計も作ってきた歴史がある。アンデルセンはそのアトリエで複雑機構を持つ時計のアフターサービスや顧客が持ち込むアンティーククロックの修復などを通じて、時計学の粋に触れ、学び取り、その後の人生に生かす術をつかみ取ったのだった。ギュブランはやがてジュネーブに新しい店を構えるにあたり、アンデルセンをそのスタッフとし、彼はスイス時計の真の中心地である、ジュネーブでの生活を始める。

そして1969年の春、彼はガラス瓶の中で部品を組み立てた、前代未聞のボトルクロックを、ある時計ショーで発表し、一躍時計の世界で注目を浴びる存在としてデビューする。さまざまなメディアが彼を取材し、その評判を知ったジュネーブ時計の老舗である、パテック フィリップ社からオファーを受け、その複雑時計部門に勤めるようになった。

その時代はちょうど、日本発のクォーツショックで、スイスの高級な機械式時計の世界が危機に瀕した時代に重なる。スイスの時計会社の多くが、クォーツ時計生産へ舵を切った時代だったが、パテック フィリップなどの高級時計会社では、それでも機械式の複雑時計を求めるコレクターなどのために、複雑時計を作り続けていたのだ。それは複雑時計製造の能力を持つ人材を絶やさないということであり、その後の時計世界にとって重要なことだったのだと思う。

1979年、アンデルセンは理想の時計を作るために、ジュネーブのローヌ川沿いの建物にアトリエを構え、コレクターのための一品時計作りを始め、また才能ある後進の時計師をアトリエに招き、自分の持つ製作のノウハウを伝える試みをも始める。時計学校を卒業したばかりのフランク・ミュラーやフェリックス・バウムガートナー、フィリップ・カンタンなどが、机を並べて、彼とともに時計製作の情熱を分かち合ったのだ。

数年前、そのアトリエを初めて訪ねた時、壁に後輩たちからの感謝の手紙や、一緒に写った写真などが飾られていて、彼の時計世界への貢献を無言のうちに語っていた。ギネスブックに認定され、マッチ棒の頭のように世界一小さなジャガー・ルクルトのムーブメントをベースに作ったパーペチュアルカレンダーや、ユリス・ナルダンのオートマタ、カルティエのジュール・エ・ニュイという昼夜表示時計、400年間無調整で暦をカウントするセキュラーパーペチュアルカレンダー、ワールドタイマークロノグラフなど、アンデルセンの手による、数々の素晴らしい時計は、時計を愛する人々に夢を与え続けてきたのである。

 

Svend Andersen(スヴェン・アンデルセン)
1942年デンマーク生まれ。同国で時計技術を学び、1963年スイスへ。パテック フィリップ等を経て、’70年代末に自身のアトリエを設立。独立時計師の先駆けであり、ヴィンセント・カラブレーゼとともにアカデミーの創設メンバーでもある。

 

[時計Begin 2019 WINTERの記事を再構成]
文/松山 猛