2019.12.24

フランソワ・ペルゴのお墓参り~幕末の日本にスイス時計を広めるべく奮闘した時計商人の足跡を訪ねて~

横浜外国人墓地に眠る、ジラール・ペルゴ創業一族の1人

12月18日。前日の冷え込んだ曇天から一転、天候に恵まれ気温も20度近くまで上がった横浜。山手の外国人墓地に時計ファン、関係者が集まった。この日は、当地に眠るフランソワ・ペルゴの命日だった。

フランソワ・ペルゴ/1835年スイス、ル・ロックル生まれ。コンスタン・ジラールとともに、現在のジラール・ペルゴ社を確立したマリー・ペルゴの弟。時計職人でありながら、ビジネスにも長け、ニューヨークでアメリカ市場を開拓の後、シンガポールを経て1860年に来日。1877年没。

1791年ジュネーブに創業。その後1856年、コンスタン・ジラールとマリー・ペルゴにより現在に続く会社を設立したジラール・ペルゴ。19世紀後半、新たな市場開拓が必要不可欠としていた同社は、マリーの弟であり時計師だったフランソワ・ペルゴを東洋に向かわせた。

開国したばかりで、スイス時計がまだ参入していなかった日本もそのターゲットであったのだが、当時まだ日本とスイスは国交がなく、フランソワは1859年にまず、シンガポールに入り、1年後、フランス領事の力を借り、横浜に上陸したという。こうして、彼は初めて日本に入国したスイス人の1人となった。

ところが、ビジネスは最初からうまくはいかなかった。当時の日本の時刻制度は、日の出と日没を基準とする「不定時法」が使われていたのだ。それでもフランソワは日本に残り、時計以外の輸入業務もはじめ、炭酸飲料の会社を設立したという記録もある。その後1864年に、スイスとの修好通商条約が締結され国交が始まると、翌年、横浜にF.ペルゴ&カンパニーを設立。ジラール・ペルゴの代理店となった。

F.ペルゴ&カンパニーの広告。ジラール・ペルゴの正規輸入代理店であることを謳っている。

1868年の明治維新を経て、1873年、日本が定時制、グレゴリオ暦を導入。スイス時計の輸入ビジネスは大いに成功を収めることになった。

フランソワ・ペルゴと、彼の日本の友人でありアシスタントを務めたと思われる半蔵。

1866年頃の横浜の地図。左の黄色く塗られた部分が今の山下町で、F.ペルゴ&カンパニーはその中央左あたり(現在の中華街)にあった。

フランソワ・ペルゴと、彼の日本の友人でありアシスタントを務めたと思われる半蔵。
1866年頃の横浜の地図。左の黄色く塗られた部分が今の山下町で、F.ペルゴ&カンパニーはその中央左あたり(現在の中華街)にあった。

 

幕末から明治初期にかけ、スイスと日本の大きな架け橋となったそんなフランソワだが、1877年、43歳という若さで日本の地で倒れ、横浜外国人墓地に眠ることになった。

横浜で発行されていたフランス語の新聞。フランソワの死亡記事が掲載されている。

 

以来、現在に至るまでジラール・ペルゴは長く日本で愛され続けていながらもフランソワのことが話題にあがることはあまりなかったのだが、2000年代に入り、横浜在住の松山 猛さんや、墓地すぐ近くの元町商店街に本拠を構える時計店「コモンタイム」の田中孝太郎社長らの手によりお墓が発見された。松山さんや田中さんは、以来20年近く、お墓参りを続けており、今回は30人近くが集まった。2020年はフランソワの来日から160周年となる。日本とスイス時計を繋いだ彼の志は連綿と受け継がれてきている。

この墓所の発見、整備に尽力した松山 猛さんや「コモンタイム」の田中孝太郎社長はじめ、多くの時計ファン、関係者が列席。

この墓所の発見、整備に尽力した松山 猛さんや「コモンタイム」の田中孝太郎社長はじめ、多くの時計ファン、関係者が列席。

この墓所の発見、整備に尽力した松山 猛さんや「コモンタイム」の田中孝太郎社長はじめ、多くの時計ファン、関係者が列席。

商館時計のコレクターである大川展功さんが、当時の時計を持参された。中央のジラール・ペルゴは、商談時に使用されるセールスマンウォッチで、実際にフランソワ・ペルゴが使用していたと思われる希少なもの。

墓所は、外国人墓地のMeyer M Lury Memorial Gate(元町門)を入ってすぐのところにある。

墓所は、外国人墓地のMeyer M Lury Memorial Gate(元町門)を入ってすぐのところにある。

この墓所の発見、整備に尽力した松山 猛さんや「コモンタイム」の田中孝太郎社長はじめ、多くの時計ファン、関係者が列席。
この墓所の発見、整備に尽力した松山 猛さんや「コモンタイム」の田中孝太郎社長はじめ、多くの時計ファン、関係者が列席。
この墓所の発見、整備に尽力した松山 猛さんや「コモンタイム」の田中孝太郎社長はじめ、多くの時計ファン、関係者が列席。
商館時計のコレクターである大川展功さんが、当時の時計を持参された。中央のジラール・ペルゴは、商談時に使用されるセールスマンウォッチで、実際にフランソワ・ペルゴが使用していたと思われる希少なもの。
墓所は、外国人墓地のMeyer M Lury Memorial Gate(元町門)を入ってすぐのところにある。
墓所は、外国人墓地のMeyer M Lury Memorial Gate(元町門)を入ってすぐのところにある。

 

フランソワ来日時の日本に溢れていた“藍色”の限定モデル

フランソワが横浜に上陸した幕末期の日本では、人々の衣服から、店舗ののれんまで、至る所に藍染の色が溢れていたという。1874年に来日したイギリスの化学者ロバート・アトキンソンは、その溢れる藍色に衝撃を受け、その色を「ジャパンブルー」と表現している。

ジラール・ペルゴの人気モデル「ヴィンテージ1945」には、このジャパンブルーを取り入れた限定モデルが用意されている。角型のケースに収められたホワイトダイヤルにブルーの針と、藍色のローマンインデックスを採用。アリゲーターストラップとそのステッチもブルーで、非常に美しい仕上げとなっている。

直線と曲線によりアールデコスタイルを作り上げるヴィンテージ1945。シースルーバックから覗くムーブメントは、自社製自動巻きのGP3300だ。このジャパンブルー限定モデルは、日本市場のみ100本の限定で発売中だ。美しい藍を纏った時計を腕にのせ、フランソワ・ペルゴの時代を想像してみるのもいいのでは。

【ジラール・ペルゴ】ヴィンテージ1945 ジャパンブルー限定モデル

サイズ33.3×32.46㎜。自動巻き。パワーリザーブ約46時間。30m防水。シースルーバック。SSケース。アリゲーターストラップ。日本100本限定。116万円。

サイズ33.3×32.46㎜。自動巻き。パワーリザーブ約46時間。30m防水。シースルーバック。SSケース。アリゲーターストラップ。日本100本限定。116万円。

サイズ33.3×32.46㎜。自動巻き。パワーリザーブ約46時間。30m防水。シースルーバック。SSケース。アリゲーターストラップ。日本100本限定。116万円。

サイズ33.3×32.46㎜。自動巻き。パワーリザーブ約46時間。30m防水。シースルーバック。SSケース。アリゲーターストラップ。日本100本限定。116万円。
サイズ33.3×32.46㎜。自動巻き。パワーリザーブ約46時間。30m防水。シースルーバック。SSケース。アリゲーターストラップ。日本100本限定。116万円。
サイズ33.3×32.46㎜。自動巻き。パワーリザーブ約46時間。30m防水。シースルーバック。SSケース。アリゲーターストラップ。日本100本限定。116万円。

 

問い合わせ先:ソーウインド ジャパン℡03-5211-1791