AUDEMARS PIGUETの歴史

オーデマ ピゲは、グループ企業に属することなく、独立性を維持する稀有な時計メゾン。その歴史は1875年、農場のー角にあった建物の屋根裏部屋の時計工房に始まる。ここで優れた2つの才能が出会い、メゾンの礎は築かれ、子孫の手で発展を続けてきたのだ。

それぞれの才気を存分に発揮した2人の創業者
偉大なる2人の創業者。右がエドワール=オーギュスト・ピゲ、左がジュール=
ルイ・オーデマ。共に優れた時計師であり、ブランド設立後は、エドワールは
営業に専従し、ここでも優れた才能を発揮し、メゾン発展の礎を築いた。

未だ途切れることのないオーデマ&ピゲ家の時計製作

オーデマ家とピゲ家がメゾンの歴史を紡ぐ

オーデマ ピゲの歴史の始まりには、2人の主人公がいる。
物語の舞台は、スイスのジュウ渓谷に位置する町、ル・ブラッシュ。1875年、この町に小さな時計工房が誕生した。工房の主は、当時22歳のジュール=ルイ・オーデマ。一人目の主人公である。彼の才能は、修業時代から時計界では知られた存在だった。とりわけクロノグラフやリピーターといった複雑機構を得意とし、工房設立後すぐに名だたる時計メーカーから仕事が舞い込んできた。それは一人では作りきれないほどの数。オーデマ家とピゲ家がメゾンの歴史を紡ぐすぐさま彼は、もう一人の時計師に声を掛けた。その時計師が二人目の主人公、エドワール=オーギュスト・ピゲである。
エドワールは、ジュールの2歳年上で、同じ小学校に通った幼馴染。2つの才能が出会ったことで、ジュウ渓谷の小さなアトリエから、さらに複雑なムーブメントが生み出されるようになり、より多くの時計メーカーに納品されるようになった。そして1881年、2人は一大決心をする。メーカーからの下請けではなく、自分たちのブランドを設立すると決めたのだ。こうして翌1882年、正式に今ある「オーデマ ピゲ」の名が、ル・ブラッシュに誕生した。
ブランド設立に当たり、二人の間で明確な役割分担も決まった。ジュール・オーデマはムーブメント開発に専従し、エドワール・ピゲは営業を担当。ジュールが生み出す複雑機構を、完璧に理解できる時計師であったエドワールが営業し販売する。このコンビネーションにより、オーデマ ピゲの時計が名声を得るのに、それほど時間を要しなかった。1888年には、すでにあったロンドンに続いて、パリやニューヨーク、ベルリン、ブエノスアイレスにも代理店を開設している。これは、エドワール・ピゲによる業績である。革新性にも満ち、1892年には、ジュール・オーデマによって世界初のミニッツリピーター搭載の腕時計が生み出されている。
以降オーデマ ピゲは、現代にいたるまで一度も途切れることなく連綿と、優れた時計製作に従事してきた。二人の創業者の息子たちもまた、優秀な技術者として、また経営者として手腕をふるった。1927年に生まれた世界最小ムーブメントは、息子たちの業績である。またジュール・オーデマの孫も、時計師としての才能を受け継ぎ、薄型ムーブメントの名機を生み、1972年には今もメゾンのアイコンである「ロイヤル オーク」の誕生にも貢献した。
そして現在もオーデマ家とピゲ家の子孫と親族によって、メゾンは所有されている。グループに属さず、自主性を発揮できるから、オーデマ ピゲの時計は、オリジナリティ豊かなのだ。

① 今もメゾンを代表する「ロイヤル オーク」が誕生した1972年当時の広告。ラグジュアリー・スポーツウォッチという新たな時計カテゴリーを創出した傑作だ。
②ブランド創設間もない頃、アトリエの玄関に掲げられた看板。ジュネーヴ、パリ、ロンドン、ニューヨークの文字は、早くから海外進出を果たしていたことを物語る。
③1892年に製作された、世界初のミニッツリピーター搭載の腕時計。複雑機構を小型化・薄型化することも得意としたジュール・オーデマならではの快挙だ。まだダイヤルにはブランド名がない。
④1907年に拡張されたアトリエ。今もこの建物はそのままの姿で残り、オーデマ ピゲの本社として使われている。アトリエの前には、ル・ブラッシュ川の支流が流れ、小さな橋を渡り、玄関にいたる。
⑤レディスウォッチの製作も早くから得意としていた。これは1927年の製作。搭載するCal.5/6 SBは、世界最小の機械式ムーブメントだ。

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