2018.07.17

松山 猛の「時計業界偉人伝」Francois-Paul Journe(フランソワ-ポール・ジュルヌ)[前編]

Francois-Paul Journe(フランソワ-ポール・ジュルヌ)
/1957年マルセイユ生まれ。時計学校を卒業後、叔父の営む時計修復アトリエに勤め、時計師としての腕を磨く。1999年、自身の名を冠したコレクション"トゥールビヨン・スヴラン"を発表。

 

時代を先取りして時計を設計する"時を計る行為"の求道者

“invenit et fecit = 発明し、製作した”。
フランソワ-ポール・ジュルヌが掲げる、スローガンは力強い。
その言葉通りに歩んできたこの20年、僕は彼の時計師としての仕事ぶりに、最大級のリスペクトを贈りたいと思う。時計学の真摯な追求と、実用的な時計作りへのストイックなまでの研究・開発の姿勢は、あまた居る現役の時計師の中でも際立っていると思われるからだ。

自ら偏屈であると認める彼は、僕が見る限り実のところ相当な照れ屋であり、時にシニカルな物言いもする。けれども、それもまた許せるくらい、時計作りへの情熱がいつも漲っている好漢なのである。

南仏の港町マルセイユに生まれ育ち、オートバイに夢中になる青春時代前期を送り、そしてそのオートバイのメカニズムにも通じる時計の世界に出会った彼は、叔父が住むパリの時計学校に入学すると、瞬く間に時計作りに精通するようになる。
1976年に時計学校を卒業すると叔父の営むアンティーク時計の修復アトリエに勤め、数々の古典的名機の修復から、時計装置の様々な秘密に接するチャンスに恵まれたようだ。

しかし当時はクォーツショックの只中であり、機械式腕時計にはもう未来はないと思われていた時代であったことは間違いない。
ただ、フランソワ-ポール・ジュルヌの天賦の才能が、機械式時計の危機を背景にした時代の苦境にも負けず、やがて来たるべき機械式時計復活の時代を見据えてゆっくりと開花したのは、ある意味奇跡的で幸運なことだったかも知れない。

1979年には、彼はロンドンの高級宝飾店「アスプレイ」のために、パリのP-Gブルンのアトリエにおいて、1年がかりで精密な機械式プラネタリウムを製作したという。これはイエローゴールドとホワイトゴールド、そしてラピスラズリのパネルやダイヤモンド、ルビーをあしらった豪華なメカニズムで、太陽の周りを水星、金星、地球が公転し、地球の周りを月が廻るという凝りに凝ったものであった。
その後、コレクターのために古典的なポケットウォッチをオーダーメイドで製作していた彼が、やがて自分のアトリエを開いたのは1985年のことだった。

パリには素晴らしい時計を作る若き時計師がいるとの評判から招待され、やがて独立時計師集団アカデミーのメンバーとなった彼と僕が出会ったのは、1991年のバーゼルフェア。世界文化社のムック誌『時計大図鑑』のバーゼル取材のある日、バーゼル・メッセ5号館のアカデミーブースの前で、メンバーの集合写真を撮った日のことである。
ジョージ・ダニエルズ、スヴェン・アンダーセン、フランク・ミュラー、ヴィンセント・カラブレーゼなどと共にカメラの前に立つフランソワ-ポール・ジュルヌはまだ若々しかった。

その年、彼がバーゼルに出展していた時計は、後のトゥールビヨン・スヴランに良く似たデザインで、僕にはそれまであまり見たことがないある種古典的な要素を、たくさん持っている時計に思えた。

文字盤の9時側にトゥールビヨン脱進機を配し、3時側に時、分針のインデックス。11時側にパワーリザーブ・インジケーターがあり、6時位置にルモントワール装置がある。ゼンマイを巻き上げたときと、それがほどけきる直前ではトルクが異なるため、時計の精度に狂いが生じる。そのトルクを一定にするために、いったん主ゼンマイのほどけるエネルギーを別の場所に移し、一定のトルクにして脱進するという複雑な装置だ。
置き時計やポケットウォッチにそれを採用した高級機はあったが、腕時計にルモントワール装置を組み込んだのは、おそらくこの時計が初めてだったのではないだろうか。
文字盤やインダイヤルを小さなビスで留めていたり、様々な凝ったメカニズムが文字盤側から見えるように作り込まれていたり、往年のブレゲなどの時計にあったような雰囲気を持つこの時計は、アカデミーのブースで異彩を放っていたものだ。

彼はこのデビュー作となる腕時計を製作する以前の1987年に、ロンドンの「アスプレイ」のためにアブラアン-ルイ・ブレゲの傑作と言われる親子時計“シンパティーク”を復刻しているのだが、本人曰く「ブレゲのオリジナルより、さらに改良を加えることができた」らしい。

次いで1989年には、スイスのオルゴール産地サン・クロワに仲間と共にムーブメント製作工房を設立する。様々なブランドからの依頼を受けてムーブメント製造を試みるが、やがて自分の時計作りに専念するためそこを去り、ジュネーブに拠点を移した。

彼とは毎年バーゼルフェアの時期に顔を合わせ、様々な時計にまつわる話を聞いた思い出がある。また1990年代の半ば頃だったろうか、パリのルーブル美術館のそばの“ルーブル・アンティーク”という骨董街で古い時計の良いものはないかとアンティーク時計探しをしていたら、偶然そこで彼にばったり会ったことがあった。縁のある人とは、様々な所で出会うようになっているのだろう。

そのとき「サン・クロワにいつかおいでよ」と誘ってくれたから、あれは1994年くらいのことだったに違いない。なぜなら彼は、1996年に“TIM”という工房をジュネーブに設立するからだ。TIMを設立したとき、一人の時計師として自分のアイデアを研ぎ澄ませ、現代的な高級時計を作ることを決心したのだろう。
そう、発明し、そして作る、彼の理想とする、クリエイティブな世界が拓けたのだった。

※この記事は [後編] に続きます。

[時計Begin 2018 SUMMERの記事を再構成]
文/松山猛 撮影(人物)/岸田克法