2019.12.07

【松山猛の時計業界偉人伝】ブレゲ家の創業7代目「エマニュエル・ブレゲ」

松山さんがこれまで出会った、時計界の偉人たちとの回想録。
今回は、ブレゲ社の副社長で、ブレゲ・ミュージアムの館長も務めるエマニュエル・ブレゲ氏。

僕のブレゲ時計への興味は最初、創業者にして、時計の歴史を200年進ませたといわれた、天才時計師アブラアン-ルイ・ブレゲから始まった。

スイスに生まれ時計師となり、若くしてフランスに移住し、パリに時計工房を開いたのち、時計の心臓部のテンプを衝撃から守る、パラシュート式耐震装置や、時計精度を極限まで高めたトゥールビヨン脱進装置、そして自動巻き上げ装置の実用化など、さまざまな発明をしたという、稀代の天才的時計師というその存在に興味を抱いた。

特に彼がフランス王妃マリー・アントワネットからの注文を受けて、さまざまな複雑機構を盛り込んで作ったという、ポケットウォッチの話には夢中になったものだ。その時計はマリー・アントワネットが悲劇に見舞われ、断頭台の露と消えてしまった後も作り続けられて、ようやく完成したのだが、のちに収蔵されていたイスラエルの博物館から盗まれてしまったと、その頃は伝えられていた。ただ残されていた設計図やスケッチから、どのような時計なのかは、うかがい知ることができたのだが。

何かの書物でジュネーブのロレックス本社に、その初代ブレゲが作ったポケットウォッチのコレクションがあると知った僕は、当時ロレックス・ジャパンの広報担当だった女性たちにお願いして、そのコレクションを見せていただく約束を取りつけてもらい、初めてのスイスへの旅に備えたのだった。

1981年、初めてのスイス取材の折に、ロレックス本社を訪ね、ハンス・ウイルスドルフ・コレクションのブレゲを撮影させていただき、その作りの美しさに改めて魅せられたものだ。

そのあと散歩を兼ねてジュネーブの街の取材をしていた時、ローヌ通りに面した時計店のショーウインドーで見かけて衝撃を受けた美しい時計こそ、その当時再興されたばかりのブレゲの腕時計だったのだ。なんと歴史の表舞台から消えたと思っていたブレゲの時計が、20世紀後半のその日、忽然と僕の眼前に姿を現してくれたのだ。そしてこの時計を何時かは手に入れねばと思ったものだった。

その時計との出会いを僕は帰国後に原稿にしてある雑誌に発表したが、それはきっと夢のような美女に出会い、恋焦がれる若者のような文章であったに違いない。ゴールドのケースサイドがコインエッジのように削られ、細かな技でギヨシェ模様が彫り込まれた、初代ブレゲの時計と同じ様式美を備えたその時計に、僕は一目惚れをしてしまったのだった。

そんなブレゲへの熱い憧れの思いを持っていたある日、スイス商社のシーベルヘグナー(現DKSH)の広報をしていた小沢さんから連絡をもらった。なんとブレゲ社から、ブレゲ家7代目という、エマニュエル・ブレゲ氏がやってくるというのである。

それは1990年代の半ば過ぎの出来事だった。当時はオイルマネーでさまざまな投資をしていたインベストコープという会社が、ブレゲの時計ブランドを運営していた時代で、その時計をスイス商社のシーベルヘグナーが日本に輸入し始めた頃のことだった。

僕が時計とその歴史に興味を持ち始めたのはあまり資料となる書籍などもない時代だったから、時計史を飾る重要人物の子孫に会い、その人からさまざまな話を聞くのは、とても刺激的な体験となった。

ブレゲブランドの再興に力を注いだフランソワ・ボデ氏とともにパリからやって来た7代目ブレゲ氏は、スマートな痩身の若き紳士で、紺色のスーツを着た、いかにも良い家柄の御曹司といった雰囲気を醸し出す好青年に思えた。

いろいろな話をしたのだが、僕が特に聞いてみたかったのは、ブレゲ家がいつ時計製作以外の事業に進出したかについてであった。なぜならフランスの戦闘機ミラージュを作った会社の名前が、確かダッソー・ブレゲという会社名だったからである。子ども時代の僕は飛行機に興味を持っていて、夜店の古本屋の屋台などで、『航空情報』などの飛行機関係の雑誌を手に入れて夢中になっていた、いわば飛行機オタク少年だったから、そんな名前を知っていたというわけだ。「そうなんです、ブレゲ家の子孫は時代とともに、世の中が必要とする先進のものに興味を持って開発するようになっていきました。それが電信産業や航空機産業といった物だったようです」

僕の質問に7代目ブレゲのエマニュエル氏が答えてくれた。彼にとっても時計以外のブレゲ家についての質問は意外だったようで、そのような角度からブレゲ家を見ている日本人がいたことを面白く思ってくれたのかもしれない。

ブレゲ・ミュージアムに保存される歴史的タイムピース「ブレゲ No.5」。1787年に製作を始め、1794年に完成した。錘の振動でゼンマイを巻き上げる自動巻き「ペルペチュアル」、ケースをハンマーが叩いて時刻を告げる「トック式リピーター」を搭載する。現ブレゲ社は、ブレゲのアンティーク時計の公開オークション史上最高値でこの時計を落札した。

初代アブラアン-ルイ・ブレゲの孫にあたる、ルイ-クレマン・ブレゲは、時計工房を引き継ぐが、やがてその頃に始まった電気通信の世界に興味を持ち、そのための機器を製作して大成功を収めた。そこで彼は時計工房の運営権を長らくブレゲ工房で働いてきたイギリス人時計師エドワード・ブラウンに譲り、自分は電信機器事業に専念するようになる。それが1870年のこと。なるほどブレゲ家の人々には、初代以来のイノベーターの血が脈々と受け継がれていたに違いない。

やがて明治の時代に日本でも電信事業が始まると、その電信送受信機などの諸設備が輸入されるのだが、もちろんその中にはブレゲ式指字電信機があった。これは、送信側がアルファベットの描かれた円盤上のレバーを操作することで、文字を指定すると、その文字が相手方の受信機に示されるというシステムで、早くも維新後の明治2年に、これによる東京の築地と横浜の間で電信が送受信されたのだという。

そしてブレゲ家の発明への情熱は収まることがなく、今度はルイ-シャルル・ブレゲという人物が、大空への夢に取りつかれ、20世紀の初めに友人とともに“ジャイロプレーン”という飛行機とヘリコプターの中間のようなものを発明し、やがて本格的な飛行機製造をするためにブレゲ飛行機会社を1911年に発足させる。それは、ブラジル人飛行家サントス-デュモンやアメリカ人のライト兄弟が、エンジン付き飛行機による、初飛行に成功して間もない時代のことだ。

「エマニュエルさん、そういえば日本人画家のレオナルド藤田が、ブレゲの旅客機を日本に売り込むために、ユーラシアを横断飛行して、日本にやってきたそうですね。彼の伝記でそれを読んだのですが」と訊くと、「確かに日本に旅客機の売り込みで、デモンストレーション飛行をしに来たようですね」とエマニュエル氏。

僕はレオナルド藤田の絵が好きで、彼の伝記なども熱心に読んでいたため、そんなことがあったのを知っていたのだが、まだ飛行機による旅行が始まったばかりの時代に、人気の画家を同乗させて売り込みをするという、そんな粋なプロモーションをしたブレゲ飛行機会社を面白く思ったものだった。

やがてインベストコープはブレゲを手放すことになり、ラグジュアリー製品をビジネスにするいくつものグループが名乗りを上げたが、最終的にスウォッチグループがブレゲを獲得することになった。インベストコープ時代に、ブレゲ社はクロノグラフの名門メーカーであるレマニア社を傘下に収めていたから、それはものすごく素晴らしい投資になったと思う。当時のグループのCEOであったニコラス・ハイエック氏も、名実ともに時計界の最高峰にあるブレゲブランドを手中に収めたことに、大きな喜びを感じていたようだった。

エマニュエル・ブレゲ氏も、ブレゲ工房時代の資料や、顧客名簿などの整理と管理をするという要職を与えられ、パリのヴァンドーム広場近くのビルの一角に、アーカイブを収蔵したオフィスを開き、ブレゲ時計の歴史について、さらに深く広く調査を始めた。

その最初のアーカイブを見せてもらいに、パリに招待を受けて出かけたこともあった。金庫室の中にはブレゲの歴史を語り継ぐ、顧客名簿に加え、初代ブレゲの残した直筆の時計装置のスケッチなど、時計史にとって重要な資料が、未整理な状態で保管されていた。

またその後も毎年バーゼルワールドの会場や時には来日の折に、彼とは何度も会う機会があったのだが、常に変わらぬ様子で接してくれたものだった。

あるときフランスの週刊雑誌のようなものをパラパラと見ていたら、エマニュエル氏の誕生日のパーティの様子が記事になっていた。やはりハイソサエティの一員として注目の的の彼がいることに納得したのだが、もって生まれた品の良さというのが、この人にはあるのだった。

5177に新色ブルーのエナメル仕様が誕生
本年発表の新作「クラシック5177 グラン・フー・ブルーエナメル」。アンクルと脱進機にシリコンを採用したキャリバー777Qを搭載するクラシック5177。このシンプルで美しいモデルの“グラン・フー”エナメルに新色の“ブレゲ・ブルー”が加わった。ブレゲ針の青焼きを想起させる深いブルーは、摂氏800℃の炉で焼く間も完全に色を安定させる技術によって生み出される。自動巻き。径38㎜。18KWGケース。アリゲーターストラップ。257万円。お問い合わせ先:ブレゲ ブティック銀座

一昨年再びパリのアーカイブを訪ねたが、その場所は変わっていて、今度はヴァンドーム広場に面した、ブティックの二階の、広々とした空間がミュージアムにあてられていた。そこには時計好きなら誰しも感動するだろう、ブレゲ社がオークションなどで買い戻した、歴代の名品がたくさん展示されていた。またところどころにブレゲの飛行機の模型が飾られ、この発明家揃いの家系の凄さを物語っていた。

バーゼルワールドが終わったばかりで、きっと疲れているはずのタイミングだったが、エマニュエル氏は快くミュージアムを案内してくださった。その取材の原稿を書くためにいただいた資料の一冊は、エマニュエル氏の渾身の歴史書『アブラアン-ルイ・ブレゲ、天才時計師の生涯と遺産』だった。

現在エマニュエル氏はブレゲ社の副社長となり、ブレゲの顔として世界各国で開かれるイベントで、ブレゲ社の歴史を語るなど忙しい毎日を送っている。彼もまたブレゲ社の一人として、先祖の残した素晴らしい業績について研究し、後世に資料となる書籍を残した、偉人伝を飾る一人だと僕は思うのだ。

Emmanuel Breguet(エマニュエル・ブレゲ)
1962年生まれ。ソルボンヌ大学卒業後、民用および軍用航空機に関する研究などを数多く発表。1993年、歴史遺産担当キュレーターとしてブレゲ社に入社。2015年よりブレゲ社の副社長、歴史知的財産管理および戦略開発部長を務めている。

 

[時計Begin 2019 AUTUMNの記事を再構成]
文/松山 猛