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2023.06.01
受け継ぐ時計:伊部菊雄さん(G-SHOCKの生みの親)
2023年に40周年を迎える「G-SHOCK」のヒストリーを紐解きながら
ネバー・ネバー・ネバー・ギブアップの気概
カシオ「G-SHOCK」の生みの親として知られる伊部菊雄さん。入社の経緯から、1行だけの企画書の採用、毬つきをする少女を見てひらめいた耐衝撃構造まで、偶然が偶然を呼び、何者かに導かれるように「G-SHOCK」開発を実現させる。40周年を迎える名作に託された“受け継ぐ”思いとは?

伊部菊雄(いべ・きくお)/カシオ計算機(株)羽村技術センター シニアフェロー。1952年新潟県に生まれ、幼少期に東京へ転居。上智大学理工学部卒業後、カシオ計算機(株)入社。’83年4月に発売された「G-SHOCK」初号機の開発に尽力。その後、メタルG-SHOCK、オシアナス、低価格帯のカシオ コレクションなどの商品企画にも携わる。現在はシニアフェローとして「G-SHOCK」の魅力を世界各地で伝える役目を担い、活躍中。
落として壊れた大切な腕時計
カシオに入社したのは偶然、というより拾われたようなものでした(笑)。当時は9月1日が就職活動解禁日という建前でしたが、実際は事前の会社訪問で内定が全部決まっていました。でも、私はそんなこととは知らず、8月30日までのんびり北海道旅行をして、9月1日にある会社の就職説明会に行くと、誰も並んでいない。人事部に通されて「君、今頃どういうつもりかね」と説教されました。
慌てて『会社四季報』をひっくり返し、電車の中で西新宿にあるカシオ計算機を見つけて、すぐに向かいましたが、会社説明会は既に終了。肩を落としていると、受付の女性が「せっかく来社されたので、名前と大学名を書いていってください」と、とても親切に対応してくださった。後日、カシオから入社試験を受けないかと連絡があり、採用されたんです。
入社当時は、高校の入学祝いで初めて父が買ってくれた自動巻き腕時計を愛用していました。大人への第一歩みたいな気がして、とても大切にしていて、テーブルに置くときも端っこには絶対に置かなかった。時計は落としたら壊れるのが常識でしたから。それがあるとき、会社で人とぶつかったはずみでストンと落ち、バラバラになりました。感動しましたね(笑)。落とすと壊れるのが当たり前と思っていたことが、目の前でその通りに起こったんですから。その感動が「落としても壊れない丈夫な時計」という、たった1行の企画書につながるんです。
当時、設計部門に在籍していて、毎月企画書の提出が課されていました。通常、基礎実験をして、企画書に構造案等を記入するのですが、愛用の時計が壊れた“感動”から、こんな時計があったらいいなという思い先行で、たった1行だけ。基礎実験もせず提出しました。もちろん採用されるなんて思っていませんでした。
「“落としても壊れない丈夫な時計”、たった1行の企画書から始まりました」─Kikuo Ibe Ibe’s Voice.

伊部氏が大切に保管している「G-SHOCK」のファーストモデルDW-5000C-1A。当時の状態をとどめている個体は極めて希少。市販されたこのモデルのほかに、開発に携わった社内の 8人だけに贈られた「PROJECT TEAM"Tough"」のロゴ入りプロトタイプも1本だけ、伊部氏の手元に残されている。
G-SHOCK誕生その生みの苦しみとは
上司から「これ通ったよ」と言われ、初めて「これは大変だ!」と思いました。企画を審議する会議では、たぶん実験されているだろうからやらせてみよう、くらいの軽い気持ちだったんでしょう。5段階衝撃吸収構造で心臓部のモジュールをガードするところまでは、すぐに辿り着きましたが、落下実験をすると、電子部品が1つだけ壊れるという現象に悩まされました。液晶が割れて、強くするとコイルが切れ、そこを強くすると、また別の部品が壊れる。今から考えると、一番弱いところに歪みが行ってしまったんですね。
実験をエンドレスに繰り返しましたが、周囲に進捗状況を全く説明していない中で、モデル名が決まり、1983年4月に発売時期も決まり……。99%できないと思いながら、それを口に出せない状況でした。1行の企画書の重みがのしかかり、精神的に相当追い詰められ、最後はどうやって諦めるか、と考えるようになり、とうとう’82年後半のある月曜に辞表を出すと覚悟を決めました。
土曜の夜、このまま寝なければ朝が来ずに諦めなくて済むとまで思い詰めていました。最後の実験のために日曜出社しましたが、やはりうまくいかず、会社の隣の公園のベンチで途方に暮れていたとき、女の子が毬つきをしているのを見ていたら、突然頭の中が本当にピカッ‼ と光ったんです。蛍光灯じゃなくて裸電球でしたね。空間を作ってそれを衝撃の逃げ道にすればいいんだって。もう劇的でしたね。公園からスキップせんばかりの気分で帰り、そこからはスムーズに進んで発売に漕ぎ着けました。
ですが、当時は薄型時計が主流。大きくて厚く、黒い樹脂で覆った「G-SHOCK」は不評で、私もこの開発過程がつら過ぎてしばらくは思い出したくもなかった。当初あまり売れなかったから取材もありませんでした。ただアメリカでは好評で、’90年代に入ってストリートファッションが若い人にもてはやされ、逆輸入のような形で日本に入ってきて支持が広がっていきました。その頃『週刊少年ジャンプ』から、「G-SHOCK」の開発話を漫画化したいというお話があり、その取材で初めて話すことができ、自分の中でやっと吹っ切れたんだと気付きました。
2008年に「ショック・ザ・ワールド」というイベントをアメリカで始め、それが皆さんの前で開発ストーリーを喋る最初でした。今までにイベントで三十数カ国を訪ねましたが、皆さんからの思いを強く感じるようになったのは、’10年以降、30周年を迎えた’13年くらいからですね。たくさんのコレクターの方が来られて、「G-SHOCK」への思いを熱く語ってくださる。こちらが逆にパワーを頂き、本当にありがたいことです。
2022年の10月、コロナ禍で3年弱止まっていたリアルイベントが久々に開催され、タイを訪ねました。心配をよそにマレーシアやアメリカから来てくれる方もいて、年齢層も広がり、小さな子どもさん連れもかなり増えました。その子どもたちが、大きくなったときにまたファンになってくれる可能性があるじゃないですか。「G-SHOCK」も、親から子へとバトンタッチされる存在になってきたのが嬉しいですね。
『G-SHOCK』も親から子へとバトンタッチされる存在になってきたのが嬉しい」─Kikuo Ibe Ibe’s Voice.

「スイスブランドの時計には、伝統の重みがあると思います。やはり、背景にあるストーリーが見える商品に魅力を感じますね」

伊部氏が、ご子息の就職祝いに贈ったオシアナスの初代マンタOCW-S1000J-1AJF。「私が企画を始めてから20年近くかかって、ようやくカシオブランドのステータスを上げていこうと企画したモデル。その意味では自信を持って手渡すことができた1本です」
受け継いでいきたいその思いとは?
イベントの時、私はメッセージとして“ネバー・ギブアップ”じゃなくて、“ネバー・ネバー・ネバー・ギブアップ”とお伝えしています。それって、実は自分に言い聞かせているんですけどね。「G-SHOCK」は、非常識な挑戦から生まれ、ものすごい困難を乗り越えてファンの方が喜んでくださるところに辿り着いた。そこは自分としても大事にしたいし、伝えていきたいことです。今、若い技術者や商品企画担当者がそれを担ってくれています。
’35年頃には、誰もが宇宙ステーションに行ける時代が来ると思うんです。宇宙は、地球上では考えられない超高温や超低温の環境で、それに耐え得る時計を実現したら宇宙人が買いに来てくれるかもしれない(笑)。頭で考えることも大事なんですが、こんな時計があったらいいなという思いの部分こそ、“ネバー・ネバー・ネバー・ギブアップ”であり続けてほしいですね。

伊部氏が所有するのは、初期型と同じ顔付きの3モデル。黒のGW-M5600は春と秋に、赤の30周年記念モデルGW-M5630Aは冬、白のG-5600Aは夏、と季節ごとに使い分けている。

’96年に登場した初のメタル「G-SHOCK」も思い入れの深い1本。
写真/谷口岳史 文/まつあみ 靖
[時計Begin2023 WINTER&SPRINGの記事を再構成]