2018.11.17

【松山猛の時計業界偉人伝】ピゲ家の末裔、アンリ=ダニエル・ピゲ

複雑時計の世界に大きな足跡を残したピゲ家の末裔

松山さんがこれまで出会った、時計界の偉人たちとの回想録。
今回は、ピゲ家の末裔にして自らも時計師だった、アンリ=ダニエル・ピゲ氏。

Henri-Daniel Piguet(アンリ=ダニエル・ピゲ)/1904年1月31日、ジャン=ヴィクトラン・ピゲの息子として生まれる。若くして父親の仕事を補佐し、ヘンリー・グレイブスがパテック フィリップに注文した有名な複雑時計などの製作にも関わるなど、多様な経験を持つ。

ジュネーブからジュラ山脈系の山を越えた、フランスとの国境線沿いにあるヴァレ・ド・ジュウは、古くから複雑時計製造の拠点としてジュネーブ時計の世界を支えてきた渓谷である。

フランスとの国境に接するその渓谷は、時計や宝飾技術を持つユグノー(フランスの新教徒)の技能集団が迫害を逃れて国境を越えた土地であり、そこにはピゲ、ゴレイ、ルクルト、メイランなどの姓を持つ時計師たちの系譜が今も連綿と続く。

1970年代の後半に、ポケットウォッチ時代からリストウォッチ時代までの複雑時計の歴史を調べていた時、アメリカの富豪ヘンリー・グレイブスとジェームス・パッカードの二人が競い合った複雑時計競争の話や、ポルトガルの富豪アントニオ・アウグスト・カルヴァリオ・モンテイロがパリのルロワ社に依頼した“ルロワ01”など、それまでの複雑さの記録を塗り替えてきた時計が、すべからくそのヴァレ・ド・ジュウの時計師たちに連なる人々のアトリエから生み出されたことを知り、いつかその複雑時計=コンプリケーション・ウォッチの聖地に行かねばと思ったものだった。

その頃は近代のポケットウォッチや腕時計に関する研究書はほとんどなく、1981年に初めてスイスに出かけた時に時計博物館で購入した書籍やアンティコルムのオークション・カタログの記述などから断片的な知識を積み上げるしかなかったのだが、その中でも際立っていたのがヴィクトラン・ピゲ工房の仕事ぶりだった。

ヴィクトランとその子どもたちが営んだアトリエから、時計史に燦然と輝く数々の傑作複雑時計が作られていたことを、やがて僕は知ったのであった。

腕時計時代を迎えて初めてのスプリット・セコンド・クロノグラフ腕時計を作り、また腕時計として初めてのパーペチュアル・カレンダー時計を製作し、さらには小型のミニッツ・リピーター・ムーブメントを持つ女性用腕時計を作ったのも、ヴィクトランの工房の人々だったのである。

その憧れのジュウ渓谷を初めて訪問したのは1990年のことだった。別冊家庭画報の『宝飾品と高級時計』というムックのために、僕は写真家の畠山直哉君と通訳のコリーヌ・カンタンさんとの3人で、国境の町ル・ブラシュに出かけた。当時ヴァシュロン・コンスタンタンやブランパン、ブレゲなどの高級時計ブランドの、日本での輸入元だったスイスの商社シーベル・ヘグナー社の広報を担当していた小澤さんという方が厚意で連絡をとってくださったブランパン社の人が、ジュネーブのコルナバン・ホテルまで車で迎えに来て、ジュウ渓谷へと案内してくださったのだった。

車はジュネーブから湖沿いに東に走り、ニヨンの町から今度は山越えの道でジュウ渓谷を目指す。

ジュネーブとはうって変わって、牧草地のアルプと呼ばれる斜面が広がる七折れ、八折れの山道を上りつめると、そこはシャレーと呼ばれる大屋根の家があるマルシエ・ド・リュズという峠の頂点であった。

運転してくれた人によれば、冬の雪が多い季節には、この道は閉鎖されるのだということだった。

そして今度は下り坂が続き、高山植物の花が可憐な色で咲き誇る、まさに絵に描いたようなスイスの風景がそこにはあった。その向こうにやがてジュウ湖が見え、峠道の終点にル・ブラシュの町があるのだった。

ル・ブラシュには昔から、複雑時計を作ってきたオーデマピゲ社の本社と工場があり、また1990年当時にはジェラルド・ジェンタやブレゲ、そしてブランパン社がムーブメント・メーカーのフレデリック・ピゲ社と軒を連ねていたものだった。

その取材時には、まだ、ヴィクトラン・ピゲにつながる人を探し当てることはできなかったが、複雑時計を得意とする人々の世界を垣間見ることができたのは大きな収穫だった。

例えばブランパン社で、当時は珍しかった腕時計のミニッツ・リピーターを組み上げていた時計師は、朝早く4時とか5時にはアトリエに入り、静かな環境の中でリピーターのゴングの調整をしているのだと聞いた。

またリピーターの部品にエングレーブしている女性の時計師は、心理学を修めて以前はカウンセラーをしていたが、複雑な人間の心理と向き合うのに疲れ果て、物言わぬ時計の精密な部品をせっせと仕上げることに今は安らぎを得ているのだと言っていた。

確かにこのエリアを車で通りすぎると、時計に興味を持たない人にはただの農村にしか見えないだろう。

車窓に広がる牧草地にはカランカランと牛たちのカウベルの音が鳴っているだけの、チーズ作りと林業以外には大した産業のない農村にしか見えない。

フランス側からは平坦な道で国境を越えるのだが、小さな看板を見落としてしまえば、そこに世界的に有名な時計会社の工房があるとは思えないのである。

その後の何度目かのジュウ渓谷への旅で、ブレゲ社がその頃再開発していた真太陽時との均時差を表示できるイクエーション・ウォッチの製作現場であり、ル・サンティエの町にあるアトリエをブレゲ社の依頼で訪ね、そのイクエーションのためのムーブメントを製作していたミッシェル・キャスパーという時計師の取材をしていた時のことだった。「このル・サンティエのどこかに、昔ヴィクトラン・ピゲの工房があったと思うのですが、ご存じでしょうか?」と僕が訊くと、キャスパー氏は驚き、「私が仕事をしているこのアトリエこそ、かつてヴィクトラン・ピゲの工房だった場所なのですよ。あなたがこの谷の古い歴史をご存じだとは、それはうれしいことだ。そしてあなたが興味を持っておられるヴィクトランの息子の、アンリ=ダニエル・ピゲはまだ存命です。この建物の、上の階に住んでいますよ。彼はもう80代半ばですが、まだ自分で車を運転しています。もっともその車を見ると、みんな道の端によけるんですけれどね(笑)。さっそく彼を紹介しましょうか」

こうして僕は、複雑時計の世界に大きな足跡を残したピゲ家の末裔であり、数々の名作の製作現場にいて自らも腕を揮った伝説の時計師から、直接話を聞くことができるようになったのだった。

その日は次の取材予定があり、あまり時間がなかったのでアンリ=ダニエルには挨拶をするだけにし、またあらためて訪問するために、連絡用の電話番号を聞くにとどめた。

アンリ=ダニエル・ピゲから遡ること3世代前にも、1817年生まれの初代のアンリ=ダニエル・ピゲという人がいて、この人物も時計師だったようだ。

その息子のひとりがヴィクトラン=エミール・ピゲといい、やはり優秀な時計師として活躍したとのことだった。また彼は町の評議員として寒村であったル・サンティエに仲間と組んで鉄道を敷き、ジュウ湖などの湖の氷をローザンヌやジュネーブに送るという事業を立ち上げたほか、ジュネーブ時計学校を設立し、時計製造のノウハウを新しい世代の時計師たちに伝えることに力を傾けた人物として知られる。

そんなヴィクトラン=エミールの2人の息子のうち、長男のジャン=ヴィクトラン・ピゲは工房の責任者として、息子のアンリ=ダニエルなどとともにスイスのパテック フィリップ、ヴァシュロン・コンスタンタン、ルイ・オーデマ、アンリ・ゴレイ、ポウル・デティシャン、オーデマ ピゲ、ブレゲ、さらにはイギリスのフロッズハムなど錚々たる時計会社にムーブメントを供給する縁の下の力持ち役を、黙々と務めたのであった。

アンリ=ダニエル・ピゲに、あらためて会いに出かけたのは1992年のことだった。

その日はアイルランド系の写真家リチャード・ホートンとその奥さんで助手を務めるミッシェル、そして僕の家内と当時5歳だった娘で出向いた。

遠来の、しかも幼い子ども連れの来客にアンリ=ダニエルの奥さんのシャルロットさんが、昔子どもたちが遊んだという木製のおもちゃを出して娘を遊ばせてくれたことを覚えている。

アンリ=ダニエルはその時、御歳88歳だったが、背筋をちゃんと伸ばし、元気そうであった。「19世紀のヴァレ・ド・ジュウの時計師たちは、納品するエボーシュや複雑時計のムーブメントを木の箱に詰め、あなたが車に乗ってきたあの道を歩いて山越えし、そして湖に着くとそこから船に乗ってジュネーブを目指したんだそうですよ。だから彼らは高度計も自作して、山を登りました」

昔の谷の時計師たちの、かなり過酷な生活ぶりが目に浮かんだ。「私の父は仕事机に向かったままの姿で87歳の時に亡くなりましたが、それがこの渓谷の時計師の理想の亡くなり方でね。私もそうありたいと思っていましたが、数年前にリタイアをしました。まだまだ意欲はあったけれど、我が家には跡を継ぐ者がいなくなってね。一人息子は勉強をして、薬学博士になってしまったのですよ」

彼はテーブルの上に分厚い写真アルバムを置き、これがわが家族の作ってきた時計の記録ですよ、と言った。

そしてそのアルバムには、グレイブスとパッカードが複雑機能を持つ時計を競い合った日にピゲ家の親子が取り組んだ仕事のすべてを物語る、時計の写真やムーブメントの写真が整理され貼り付けられていた。その下には金額らしいものも書き添えられている。

おそらくは最初に納品した時の金額と、それが注文した人に売られた時の金額である。そして近年のオークションで、天文学的に膨れ上がった落札額も書かれているものと思われた。

「いろいろな時計をわが家族は作ってきましたよ。ミニッツ・リピーターやスプリット・セコンド、グランソヌリにパーペチュアル・カレンダー、さらにそれらの機能を併せ持つグランド・コンプリケーションまでね。中でも最も凄かったのは父とともに成し遂げた、ヘンリー・グレイブス二世が注文した24もの複雑機構を持つポケットウォッチで、これの製作には5年以上もの歳月がかかったものでした」

アンリ=ダニエル・ピゲは僕が「天職の谷」と呼ぶ、複雑時計の世界を語ることができる偉大な時計師だった。

後で知ったことだが、ピエール・クンツもジュウ渓谷の時計学校卒業後、ヴィクトラン・ピゲ工房で修業をしたという。今度彼に会ったら、その頃の話を聞きたいと思っている。

雪深い冬にはスキーが必需品であったに違いなく、ピゲ家に通じる階段の踊り場には、昔のスタイルのスキー板が置かれていた。

アンリ=ダニエル・ピゲ氏の手元には、わずかに残った時計製作のための道具と時計のほか、あまり重要なものは残らなかったという。

雪深い冬にはスキーが必需品であったに違いなく、ピゲ家に通じる階段の踊り場には、昔のスタイルのスキー板が置かれていた。
アンリ=ダニエル・ピゲ氏の手元には、わずかに残った時計製作のための道具と時計のほか、あまり重要なものは残らなかったという。

 

[時計Begin 2018 AUTUMNの記事を再構成]
写真、文/松山 猛