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2019.01.18
初代セイコー クレドールを手掛けた原 久さんが十数年温めた前代未聞の縦型ムーブ【小沢コージの情熱ですよ 腕時計は】
ムーブと会話しながら時計を作りたい、と自らオリジナルムーブをデザインした男
原 久さん68歳。1970年代に日本初の本格宝飾時計、セイコーのクレドールシリーズを手掛け、その後フリーとなった超ベテランだ。しかしここ十数年温めに温めた前代未聞のタテ型ムーブメントをモノにし、2019年、衝撃的な新作を発表予定。まさに一生一時計デザイナー。このままでは、日本の機械式製造技術が失われると危惧する憂国の時計デザイナーでもある。
PROFILE
原 久(はら ひさし)/1950年長野県中野市生まれの68歳。美大受験の浪人中に世界の一流ジュエリーに遭遇。等身大で作る彫刻よりも小さい宝飾の方が迫力あることに感動。ジュエラーを目指し、’73年にフィレンツェのイタリア国立美術研究所金工科の門を叩くも、当時のあまりのストライキの多さから、’74年デンマーク王立工芸学校金工科に入学。卒業制作が芸術手工賞に輝き、’77年にデンマーク女王陛下より直々に受賞。同年諏訪精工舎に入り、初代クレドールを手掛け、後にトキオ・クマガイ、島田順子らと共作。’87年退社。以来フリーの工業デザイナーとして活躍。
ニッポン時計デザイン界のスーパーエリート
小沢 まずは華麗なる経歴が圧巻です。1973年、23歳でイタリア国立美術研究所に入り、翌年デンマーク王立工芸学校に移り、’77年諏訪精工舎に入社して初代クレドール担当!こんな凄い日本人時計デザイナーがいたのかと。
原 違います。ラッキーだったんですよ僕は。大学に落ちたので他の生き方もあるだろうと海外に。芸大は何度も落ちてます(笑)。
小沢 少しホッとしましたが、しかし凄いですよ。’70年代に単身欧州。
原 芸大を目指していた浪人時代にジュエリーの国際展覧会に行ったらこんなに凄いのかと。その後すっかりのめり込んで、20歳から独学で学びました。当時日本に宝飾の学校はなかったので。
小沢 イタリアに行くしかないと。
原 フィレンツェは今でこそサッカーや美食のイメージですが、当時は非常にマイナーな宝飾の町。しかも僕は非常にラッキーで入学シーズン外れに、50枚ほどの作品写真を主任教授に直接見せたら「明日から君は僕の生徒だから」と。でも当時のイタリアはストライキが多くて結局1年しかいなかった。
小沢 次はなぜデンマークに?
原 北欧デザインってイタリアと違ってシンプルじゃないですか。押しつけがましくないのに馴染む。しかも当時からデンマークには、ジョージ・ジェンセンなど優れたブランドがありましたし。
小沢 そこには3年おられた。
原 王立工芸学校があって学生が最後に行く2年コースがあるんです。そこにゲストスチューデントでよければいらっしゃいと言われ、1年後に主任教授に「次の学年は正式な学生になりなさい」と。ホントはドイツとか他のヨーロッパも回りたかったんですが。
小沢 結局イタリア、デンマークで何を学ばれたんです?
原 はっきりわかったことは、自分は日本文化の中で育ってきて、日本の血が流れているということと、師を持つことの大切さです。
小沢 まさに徒弟制度ですね。その後なぜ日本のセイコーに。
原 非常にお世話になった方に諏訪のエプソンの関係者がおられて、帰国した時に卒業制作を持ってご挨拶に伺ったんです。すると「紹介したい奴がいる」と。諏訪精工舎で働いていたその方の義理のお兄さんが来られて「セイコーブランドの頂点となる時計をこれから作らなければならない」「ヨーロッパに負けないような宝飾時計を作らなければいけない」と。「お前はその礎になるキモチはあるか」と言われて、思わず「はい」と。
「とりあえず今まで誰も見たことのない機械式時計と言っておきましょう(笑)」
小沢 そりゃ断れませんよね。
原 結局、僕は入社して、各職場から10人くらい集めて宝飾時計チームが結成されました。僕は彼らに約3年かけてダイヤモンドを留める技術や磨きなど、学んだ技法をすべて教え、そこから本格スタート。’80年代に最初の宝飾時計が10本出て、当時一番高いのが1本2億円台!
小沢 最初のクレドールってそんなに高かったんですか?
原 後で聞いたら2億円台のものは販売されず、3000万円台の時計が百貨店で何本か売られたようで。同時に20万~30万円のステンレスの普及版も出て、それが爆発的に売れたんです。そしたら30億~40億円だった高額時計の売上げが120億円まで伸びて。
小沢 大成功じゃないですか!でもセイコーはわずか10年で辞めてフリーになられましたよね?
原 僕は結構な不良社員で(笑)。
小沢 根本的なところで欧州の徒弟制度で育った原さんと、日本の美大エリートの物作り観が合うわけないんですよ。何より彼らは「売れるデザインを作れ」って言われ続け「美しいものを作れ」とは言われない。日本の工業デザイナーに作家性は求められないけど、欧州は違う。実際にセイコーを辞めてからは何を。
原 ’87年からは自分で材料を買い、自分でデザインして、職人さんにお願いして時計を作ってました。具体的にはテレビ通販などを通じてオリジナル時計を売ってました。
小沢 つまりフリーの時計デザイナー、プランナーとして30年やって来て、実は今回自分の機械式時計ブランドを立ち上げると聞きました。一体何があったんです。
原 以前、仕事でスイスに行った時に100年以上前の時計を復元した人達に会いまして。その時復元したムーブは現代のケースに入れてくれって本当に言ってるのかなと思って。同時に僕はそれまで自分がムーブメントと会話してないことに気づいたんです。それまではとにかくカッコいいケースを作ろうと思ってた。
小沢 中身に関係なくですよね。
原 そう。でもデザイナーと会話できるムーブメントがあれば今までと違った時計としての表現ができるのではないかと。
小沢 そこで今の相棒に会った。
原 たまたまムーブメント製作者の小堀さんという方と出会うんですが、彼の技術力って凄いんです。特に某ブランドのタテ型ムーブメントを意識したヤツが面白い。歯車が一直線に並んでて機械としては最も原始的。それを進化させたのがコレです。
小沢 なんスかコレ。いったいどういう時計ができるんですか?
原 設計図をチラッと見せますと。
小沢 うわ、なんだコレ! 確かにこんな時計見たことないかも? しかし68歳でよくこんな挑戦をする気になりましたよね。
原 この時計は、ムーブメントを手作業で1本1本作ります。大量生産は難しい。スイス時計産業の分業システムを活用すれば、アイデアが具現化できる。お金はかかりますが。
小沢 日本もそうあるべきだと。
原 本当にそう思います。このままだと日本からアイデアと時計製造技術がなくなっちゃいますから。
「このままだと日本の時計技術は自然消滅してしまうんですよ」
[時計Begin 2019 WINTERの記事を再構成]
文/小沢コージ 写真/谷口岳史