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2020.03.06
時計界の名プロデューサー、マキシミリアン・ブッサー【松山猛の時計業界偉人伝】
夢に描いた時計を実現する稀有の時計プロデューサー
松山さんがこれまで出会った、時計界の偉人たちとの回想録。今回は、ハリー・ウィンストンの"オーパス"を企画したマキシミリアン(マックス)・ブッサー氏。
独立時計師の名を高めたプロジェクトを指揮
今から18年前の2001年、ニューヨークのダイヤモンドジュエラーである“ハリー・ウィンストン”が、それまでのコンサバティブだった時計世界に一石を投じるプロジェクトを始めた。
その時代の最先端を行く時計師たちに、思いの丈を注いだ時計を創造してもらおうという“オーパス”というプロジェクトがあり、陣頭指揮を執ったのが、マックス・ブッサーという時計プロデューサーであった。
オーパス=「作品」と名付けられたこのプロジェクトは、新進気鋭の時計師たちに、その技術力の粋を極めた特別な機能や、それまでにない時間経過を表示する時計を、毎年作ってもらおうという試みであった。
その最初の作品となった”オーパス1”は1999年に自身の工房を立ち上げたばかりの、フランソワ-ポール・ジュルヌの時計で、トゥールビヨン機構を持つタイムピースや、ふたつのテンプを同調させて精度を上げるレゾナンス、そしてパワーリザーブ・インジケーターとカレンダーの大窓を持つ3種類が発表された。
最初の作品の作者にフランソワ-ポール・ジュルヌを選ぶところが、的を射た選択眼を持つプロジェクトだと思ったものだ。そのジュルヌ時計は、ハリー・ウィンストンのニューヨーク本店の入り口のゲートをモチーフにしたデザインのケースに組み込まれ、彼の普段の作品とはひと味異なる雰囲気に仕上げられた、特別感を持つものとなっていた。またダイヤモンド商らしく、ふんだんにダイヤモンドをセッティングしたモデルも作られ、それは眩く輝くゴージャスなものとなっていた。
その発表会に僕も招かれて出席したのが、マックス・ブッサーとの付き合いの始まりで、すでにバーゼルワールドなどで何度も話す機会があり、旧知の中だったフランソワ-ポールからの紹介だったことを思い出す。
翌年の”オーパス2”は、やはり独立時計師のアントワーヌ・プレジウソの製作による、彼お得意のトゥールビヨン。これは香箱を支えるブリッジがハリー・ウィンストンの頭文字のHとMとなったもので、シンメトリカルなデザインが実に品のよいものだった。
オーパスのプロジェクトが始まった時代は時計界において、独立時計師の存在が大きく話題になり始めた頃だ。このオーパス・シリーズ以前にも、ドイツの皮革製品ブランドのゴールドファイル社が、独立時計師集団アカデミーの時計師たちとコラボレーションし、ゴールドファイルの名を冠した、特別感のある時計作りを展開したことがあった。ただそれは一時的なプロジェクトであったから、そう長続きはせずに終わってしまったのだが、ハリー・ウィンストンの場合は、それから先もシリーズは続き10年をはるかに超えるものとなったのだ。
第3弾の”オーパス3”は、ヴィアネー・ハルターによる6つの表示窓を持つもので、ブルーの数字で時間を読み取り、黒の数字で分を、日付は赤の数字で読み取るという複雑な物だった。”オーパス4”はクリストフ・クラーレによるダブルフェイス腕時計で、表側には、時、分のほかポインター・デイト、大型の窓によるムーンフェイズ表示があり、裏側はシースルーになっていてムーブメントの動きを見ながら、もうひとつの時、分針によって時刻を読み取ることができるものだった。
フェリックス・バウムガートナーによる“オーパス5”はレトログラードする時間針の根本に3つある4面体が、60分を刻むと次の4面体にリレーし、それまでの4面体は回転して、次の数字に代わるという、これまた超絶技巧たっぷりの時間表示を行うものだった。
マックス・ブッサーの時計世界における交友は広く、その人脈を最大限に生かしたオーパス・シリーズは、ハリー・ウィンストンという力強い後ろ盾によって、それまでにはなかった、不思議でありながら最高に精密でゴージャスな時計を次々と実現していき、毎年の発表を心待ちにしたものだった。
"フレンズ"とともに作った最初の1本
2007年発表のMB&F最初の時計「オロロジカル・マシンNo.1」。マックスがコンセプトを考え、社内外の"フレンズ"たちの力を借りて完成に漕ぎ着けた。時・分を別の文字盤で表示し、センターにはトゥールビヨン機構。
4つのバレルを擁し、7日間のパワーリザーブを実現。ローターは、マックスが好きだった日本のアニメ『グレンダイザー』の武器"ダブルハーケン"がモチーフだという。
2007年発表のMB&F最初の時計「オロロジカル・マシンNo.1」。マックスがコンセプトを考え、社内外の"フレンズ"たちの力を借りて完成に漕ぎ着けた。時・分を別の文字盤で表示し、センターにはトゥールビヨン機構。">
理想の時計製作のための友人たちとのブランド
マックス・ブッサーは1967年にスイス人外交官の父と、インド国籍の母のもと、イタリアのミラノで誕生した。両親は父親がムンバイに赴任した時に出会い、そして結ばれたと聞く。彼のどことなくエキゾティックな雰囲気は、その両親の資質を受け継いだからだったようだ。
やがてマックスが4歳の時に両親がスイスに戻り、彼もレマン湖沿いの小さな町ヴェヴェイに暮らし始める。後にローザンヌの北にあるリュトリーやプリーの町で暮らし、成長した彼はローザンヌの連邦工科大学で機械工学を学ぶ。そして大学卒業後、選んだのは、ネスレやプロクター&ギャンブルといったスイスを代表する大企業ではなく、規模こそ小さいが、機械式時計の聖地ジュウ渓谷にあるマニュファクチュールのジャガー・ルクルト社だった。
それはようやくスイス時計の世界が、クォーツショックから立ち直ろうとしていた時代である1991年のことだ。当時ジャガー・ルクルトを率いていたのはアンリ・ジョン・ベルモだった。彼は、クォーツ・クライシスの時代にも、ジャガー・ルクルトを守り抜き、やがて後進に道を譲って以降は、モンブラン社が傘下に収めた、クロノグラフのメゾンであるミネルヴァの再構築に力を注ぎ、見事に復活させた時計界のレジェンドの一人である。
さらにその時代にはギュンター・ブルムラインによってジャガー・ルクルトやインターナショナル・ウォッチ・カンパニーがグループ化され、A.ランゲ&ゾーネが再興されている。
ジャガー・ルクルト社でプロダクトマネジャーやマーケティングマネジャーとして研鑽を重ね、機械式時計の神髄に触れたマックスの才能を認め、時計部門の責任者として迎え入れたのがハリー・ウィンストンであり、1998年のことだった。それは、ようやくスイス機械式時計の復興が成し遂げられ、業界が再び活気を帯び始めた頃で、ハリー・ウィンストンは、そんな時代ならではの”オーパス”というプロジェクトに、新しい時計の時代の夢を込めたのに違いない。
マックス・ブッサーはやがて、さらに自分の理想とする時計作りの夢を描き、それを実現するために2005年にMB&F(マキシミリアン・ブッサー&フレンズ)という新しいプロジェクトを発足させた。彼はそのプロジェクトにより、子ども時代からの夢の世界を次々と実現していく。それは子ども時代に培った、ロボットや自動人形、コミックといった興味をベースにした、まさに時計のワンダーランドのような世界観を持つ時計作りだったのだ。
僕はその時代、シンガポールで『レヴォリューション』という時計雑誌を始めたウェイ・コーや、ジュウ渓谷の偉大な時計師フィリップ・デュフォーとともに、ジュネーブ郊外プティ・サコネのフォンデュ・レストランでマックスの新しい夢を聞いたものだった。そうして2007年に誕生したのがオロロジカル・マシンと呼ばれる、それまでになかったスタイルを持つ時計だ。
2005年に彼が自分のブランドを立ち上げる時、自身の持つ財産のすべてを投じたのだが、それでは必要とされる金額に満たなかったという。しかし彼の夢に共感し協力してくれたのが、シンガポールやロサンジェルス、パリ、クウェート、そしてUAEのドバイなどのディストリビューターや、すでに個人的な付き合いを持っていた時計コレクターたちだった。シンガポールでは、アワーグラス社が、そしてドバイではマックスが第2のファミリーというアフメッド・セディキ家が、強力な後ろ盾となってくれたそうだ。
オロロジカル・マシンの第1号機は、真ん中にトゥールビヨン・システムを持ち、その文字盤の左側で時間を、右側で分を読み取る横長の時計だ。開発当初はサプライヤーが匙をなげ出すほど複雑で、とても予定通り約束した納期に間に合いそうになく、資金繰りにも支障をきたしそうになったそうだが、そこで技術的な問題を解決してくれたのが、ルノー・エ・パピ社のジュリオ・パピだった。
2号機はやはり横長ケースで、右側の回転するディスクで時、外側の針で分を表示し、左側のカレンダーの丸窓で日付を読み取るというものだ。こうして彼がプロデュースしたオロロジカル・マシンや、その後のレガシー・マシンは、コレクターたちに大歓迎された。また置時計の老舗ブランド”レペ”とのコラボレーションによる、ロボットや宇宙船をモチーフにした置時計も、デザイン性の高さから人気を得た。
まさに順風満帆といった成功を収めた彼は、ジュネーブと台北、ドバイにMB&Fギャラリーを開き、先鋭的な作品を創造しているアーティストの活動を支援するようにもなった。ジュネーブと台北のギャラリーを見に行ったが、そこは男の子の夢の城のように、好奇心と楽しさがあふれる空間だ。
今年SIHHで出会った彼に、今はどこをベースに暮らしているのかと聞いたら、ドバイで家族と暮らしているという。マックスは昔、ユリス・ナルダンのロルフ・シュナイダーが家族のよりよい生活環境のため、マレーシアに生活拠点を置いているという話を聞いて感銘を受け、自分も幼い娘の健やかな成長を見守るのにドバイは絶好の土地と考えて、生活拠点を移した、という記事を読んだことがあった。
スイス時計界のために努力を重ねてきたマックスは、2020年のジュネーブの時計サロンが大変革するにあたり、その”ウォッチ&ワンダー”の総合プロデューサーとなったようだ。どのような時計ショーが始まるのかと、彼の手腕に期待する人も多いだろう。
[時計Begin 2020 WINTERの記事を再構成]
文/松山 猛