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2020.11.30
独立時計師アカデミー正会員にして、現代のからくり儀右衛門「菊野昌宏」【松山猛の時計業界偉人伝】
松山さんがこれまで出会った、時計界の偉人たちとの回想録。今回は、「和」の要素を取り入れた独特の作風で名高い日本人の独立時計師、菊野昌宏氏。
独立時計師アカデミー正会員にして、現代のからくり儀右衛門
「和」にこだわる独特の作風の原点とは?
日本人時計師の仕事ぶりには、近年目覚ましいものがあり、ますます興味深いものとなってきた。
なかでも僕が注目しているのは「和の世界」を作品に取り込んで特徴づけている、菊野昌宏氏の仕事ぶりだ。
江戸時代に日本で独自の発展を見せた和時計の要素や金属加工の妙味を巧みに取り入れた、その独特の作風は、他の追従を許さぬものがあり、これにより彼は2011年に準会員として、2013年に正会員として世界の独立時計師アカデミーAHCIに迎え入れられたのだった。
日本という国は江戸時代に鎖国政策をとっており、それよりはるか以前の時代からの太陰暦を基本とした暦や、季節ごとに移ろう昼夜の長さに合わせた、独特の不定時法という時刻法を用いて生活を営んできた。
それはよく時代劇のナレーションで使われる、「草木も眠る丑三つ時」などと十二支を用いて時刻を表すスタイルだが、西洋の一日を24時間に均等に割り切る定時制のようなものではないから、変化に富んだ時の流れを、機械式時計というメカニズムで表現するのは、さぞかし難しいことだったろう。
日本の時計師はその変化を、たとえば二挺天秤といって、二つの異なるスピードで時を刻む天秤=テンプにより、夏、冬の時間の流れに合わせようと考えたりもしたのだった。
それはいわばメトロノームのように、天秤の振り幅を変えることによって、時計が進むテンポを変えたというわけだ。
大名時計といわれる、櫓型の時計などに、この方式が多く採用されているが、それとて時を正確に捉えられるものではなかっただろう。
幕末には日本の時計も小型化が可能となり、印籠時計といわれる提げ時計も作られるが、それは時刻を正確に知るというよりも、装身具としての価値を求められたものだったかもしれない。
それはなんだか、現代のお洒落紳士が、素敵な腕時計をさりげなく楽しむことに通じるように思う。
この国の「時」というのは、かようにあいまいなものだったのだろうか。
僕の幼い頃、昭和20年代後半の記憶の一つに、京都三条京極あたりの店の飾り窓に、営業時間を記した札が立てかけてあり、そこに「営業時間、日の出から日の入りまで」と書かれてあったのを見て、父にどういうことなのかと聞いたことがあった。
明治生まれの僕の父は、幼くして商家の丁稚となった人だったから、そのあたりの事情に詳しかった。
冬はお天道様の出ている時間が短く、夏はその逆となる。昔は電気もなくろうそくなどで灯りをとっていたから、商売の時間も季節によって異なり、朝から夕暮れまでの時間にしていたことなどを教えてくれた。
きっと昔の日本人には、緩やかに変化する時間を理解することが、経験的に身についていただろうし、寺院などの時を知らせる鐘の音で、現在時刻を知ることができたのだろう。
そして人々もそのような時の流れの中で暮らしていたから、さほど不便も感じなかったようだ。今日の我々の日常のように、何時の電車に乗らなくてはならないとか、何時何分にどこそこで待ち合わせといった、細かな約束事のない世界がそこにはあったのであろう。
それは「からくり儀右衛門」こと、田中久重が、1851年に製作した「万年自鳴鐘」通称万年時計という時計だ。
この時計は六面の文字盤を持っているもので、
第一面、割駒式和時計による時刻
第二面、旧暦の24節気
第三面、七曜と時打ち表示
第四面、十干と十二支による日付表示
第五面、月齢・旧暦表示
第六面、洋時計
さらに時計の天頂部には、ドーム型ガラスに覆われた日本地図があり、その上に太陽と月の動きを表すアーチが備えられ、これも季節により動いていくという凝った仕掛けを持つ。
このように、万年時計は大変複雑なメカニズムを内包する、わが国最高峰の技術の集大成なのである。
そしてこの時計はそのケースが、漆芸や七宝、さらに螺鈿細工により装飾されていて、工芸品としての価値も高い、国の宝であると僕は思う。
この万年時計を見た時、僕はイタリア人の発明家、ジョバンニ・ドンディが作ったという、天文時計を思い出した。
ドンディの製作したアストラリウムという時計も、複数の文字盤を持つ天文時計である。現在のグレゴリオ暦以前のユリウス暦の時代にそれは作られたから、今では実用的ではないらしいが、14世紀半ばにこのように複雑なものが作られていたことに驚かされる。
田中久重は寛政11年、西暦では1799年、九州の久留米で鼈甲細工師の家の長男として生を受け、幼い頃から器用な上に発明の才能を持つ子どもだったという。
父親の仕事場にあった様々な工芸の素材や、幕末の長崎に渡来した西洋文物などに刺激を受けて育った。
彼が得意としたのは、からくり硯箱のような仕掛けもので、やがてその才能は「弓曳童子」などの、複雑な動きをするからくり人形や、この万年時計として結実していく。
万年時計は時計下部の2組のゼンマイ動力によって、1年近く動き続ける時計として完成された。面白いのは西洋時間を示す第六面に、フランス製とされる懐中時計を用いていることだ。資料写真を見ているとそれは、19世紀半ばにスイスやフランスで作られた、典型的な設計のムーブメントであり、田中久重がどのようにしてその時計を手に入れたかが興味深い。
この素晴らしい万年時計を、復元整備し、またその複製を作ろうというプロジェクトが、上野の国立科学博物館と東芝の共同で始まったのが、2004年のことであった。
その際、第一面の割駒式の和時計は、季節で変わる昼夜の長さに対応するべく、田中久重が工夫を重ねた大変複雑なもので、他に例を見ない独特の形状をした「虫歯車」という歯車が使われていることがわかった。
現代の時計師である菊野氏は、この復元プロジェクトを知り、大変に興味を持ったのだと聞く。
そして彼は、腕時計の大きさでこの割駒式の時刻表示を持つ時計を、作りたくなったのであった。こうして幕末明治の天才技術者と、21世紀の独立時計師が、一つの不思議なメカニズムによって結ばれることになったのは素晴らしいことだ。
2011年、スイス・バーゼルで鮮烈なデビューを飾る
菊野氏の経歴もユニークなもので、1983年に北海道に生まれた彼は、高校卒業後、自衛官になったそうだ。
その時の上官の一人に、時計好きの人がいたらしく、その人に影響を受けた彼は、機械式時計に魅力を感じ、自衛隊を除隊して、東京渋谷にあるヒコ・みづのジュエリーカレッジに入学し、3年間のコースで時計製作を学ぶようになる。ジョージ・ダニエルズの書物からも多くを学んだそうだ。
そしてやがて復元プロジェクトが展開されるという、田中久重の万年時計に興味を抱いたらしい。
研究に研究を重ね、菊野氏は独自のメカニズムを持つ「和時計」という腕時計を完成させることに成功し、その時計がアカデミーの人々に注目され、まずはメンバー候補としてバーゼルワールドの、アカデミーブースでお披露目をすることとなった。
「和時計」は、割駒が動くことで、季節によって昼夜の長さが変わる文字盤と不定時法の時を読むための独特の形状で青焼きされた一本針を持つほか、定時法の時間を読む長・短針も併せ持つので、普通の時計としても用いることができるのである。
その年のアカデミーブースに出品した折の、菊野氏の初々しい姿を、僕ははっきりと覚えている。
そして季節ごとに割駒が移動するそのメカニズムに、来場者の多くが驚くのを目撃したのだった。アカデミーの正会員になるには、そののちの2年間に新作を発表する必要があり、翌2012年にはトゥールビヨン腕時計を、そして2013年には「折鶴」というリピーター・オートマタ時計を発表し、晴れて正会員となったのだった。
この時計も凝りに凝ったもので、文字盤の上部にお椀状の鈴があり、その中の小さな金属製の折鶴が、鈴が打たれるのに合わせて、羽ばたくのだ。
音で時間を知ることができるのと同時に、文字盤右下の長短針によっても時刻を読み取れ、さらにはこの針とリピーターの時間をずらすことにより、2カ国の時間を知ることもできるというから素晴らしいではないか。
時計製作のすべてをたった一人で行う
現在の彼は、「和時計」をさらに小型化した「和時計改」やその後に開発したムーンフェイズ時計の「朔望」という2種類の時計だけに専念し、注文品だけを製作しているのだが、フェイスブックにその製作の模様を公開しているから、興味のある方はそれを御覧になるとよいだろう。
彼はたった一人で、すべての部品を削り出し、念入りに作品を組み上げている。さぞかし忍耐のいる仕事ぶりに違いなく、それゆえ出来上がった作品には、彼の思いと技が、存分に込められていると思う。
「和時計改」に、彫金師の金川恵治氏による、繊細な透かし彫りのケースを持つ「和時計改暁鐘」という作品があるが、これもまた日本という工芸芸術の国の、レヴェルの高さを具現化した優美な腕時計となった。
日本独特の時の流れを、機械式時計として完成させた田中久重と、それを現代の腕時計として完成させた菊野昌宏の二人は、やはり時計界の偉人なのではないだろうか。
田中久重作「万年自鳴鐘」。オリジナルは東京・上野の国立科学博物館に展示(東芝所有。重要文化財)。2004年からの国家プロジェクトで復元されたレプリカは、東芝未来科学館に展示されており、実際に動く。写真提供:東芝未来科学館
菊野昌宏氏の作品。上から1作目の「和時計」、ムーンフェイズ装備の「朔望」、日本の伝統工芸技術"木目金"が施された文字盤の「木目」、一番下が1年に1本しか製作しない「和時計改」を印籠に組み込んだもの。
菊野 昌宏
1983年北海道生まれ。2008年、ヒコ・みづのジュエリーカレッジ卒業。2011年、日本古来の不定時法表示を腕時計で実現させた1作目「和時計」を発表し、AHCI 準会員となる。その後1年ごとに「トゥールビヨン 2012」、「折鶴」と新作を出し、2013年にAHCI正会員。「手作業」にこだわり、素材・仕上げにも日本の伝統技法を取り入れた唯一無二の作風は、世界的に高く評価されている。
[時計Begin 2020 autumnの記事を再構成]