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2023.06.02
貴重な歴史的資料でもある商館時計研究の第一人者【松山 猛の時計業界偉人伝】
松山さんがこれまでに出逢った時計界の偉人たちとの回想録。今回は、コレクターにして商館時計の研究者としても知られる大川展功氏。
明治に始まる商館時計の研究者として
大川さんは、明治時代に輸入され始めた、いわゆる商館時計の研究の第一人者として知られる人だ。大川さんが雑誌『世界の腕時計』誌上に連載していた『商館時計蒐集綺談』は、僕も興味深く読ませてもらっていた一人だった。商館時計といっても、スイス、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカなど様々な国から輸入されており、それぞれ国ごとの製品があった。いま骨董市場に残されている時計の出自を知るうえで、その連載記事はとても参考になるものだった。
それにしても大川さんはどれくらいの数の商館時計を見てきたのだろうか。蒐集した時計の各部を一つ一つ撮影し、ムーブメントや、刻印などを記録することで、彼はそこから見えてくるそれぞれの商館の歴史を見つめてきたといえよう。各々の商館の時計には、様々な動物や騎士などの刻印があり、それも時代によって変化する。その分類の微に入り細にわたる調べぶりには驚かされたものだ。それまでそこまで詳しく商館時計について調べ上げた人はおらず、また克明に記録された資料というものもなかったはずだから。
僕が出会った銀側の商館時計
僕も1970年ごろに、大振りな銀側で、スモールセコンドのポケットウォッチを手に入れたことがあった。その裏蓋に“コロン”という、カタカナの銘が入っているのを眺めながら、西洋式の時間制度に戸惑っていただろう、明治の男たちのことを想像したものだ。
’70年代の初めごろには、こうした商館時計を、町の骨董店のガラスケースや、骨董市などでよく見かけたものだったし、当時はそれほど高い値段もつけられていなかったと思う。それらの時計は直径が5.5cmから6cmと結構な大きさで、たいていは銀のクオリティが純度0.800と刻印が押されているものだった。
銀ケースの時計は、酸化するとくすんでしまうが、コンパウンドなどで磨けば、すぐにきれいに輝く姿を見せてくれるし、持ち主たちはそのような手入れも楽しんでいたに違いない。
ケースの裏側には斜子彫りが施されているものが多いが、これも指紋などを付きにくくするための工夫であったらしい。長短針の時刻合わせは“ダボ押し”といって、ケースの右上あたりにある小さなボタンを押し込みながらリューズを廻すもので、こうして時刻合わせをするのだと、確か骨董店の店主に教えてもらったように思う。
度重なる引っ越しのせいで、残念ながら今その時計は見つけられないのだが、“ダボ押し”は18世紀末から19世紀の初めごろのスイス時計に多く採用されていた時刻合わせのシステムだ。
文字盤は当時の人が瀬戸干支と呼んだ、エナメル文字盤で、そこに小さな石の装飾を用いた針をあしらうのが、当時のスイス時計のスタンダードだったようだ。
ムーブメントは初期にはシリンダー脱進機のものもあったが、やがてスイスアンクル式の脱進機のものが多く輸入されるようになった。
その多くは時計の帝都と呼ばれたスイス北部の、フランス国境に近いラ・ショー・ド・フォンあたりで製造された分割ブリッジ・スタイルのもので、大きなスクリューバランスと呼ばれるテンプを用いたものだ。
明治の男たちの粋な渋好みとは
明治の男たちはその時計を絹の組み紐に吊るし、和装の場合は着物の帯に挟んで用いたのだろう。
江戸時代の日本では、人々はみな太陰暦で暮らしていたため、明治初期にはこのような輸入時計を買うと、太陽暦を解説した小冊子のようなものが付録についてきたと、ものの本で読んだことがある。
大川さんの連載などによって、僕は明治初期に、スイスのコロン商会のほかに、ファブル・ブランド商会や、へロブ商会、シーベル・ブルンワルト商会、フランスのヲロスジバアク商会、オッペネメール商会、ドイツのレッツ商会などの時計が、日本の時計商の店先に並んでいたことを知ったが、当時の日本では金側の時計が高価だったのと、何事にも渋好みの日本人の趣味に合うというので、圧倒的に銀側の時計が多く輸入されたということらしい。
フランソワ・ぺルゴが結んだその出逢い
その日本人の好みについては、幕末に来日した最初のスイス人時計師にして輸入商館の主であった、フランソワ・ペルゴも、本国への手紙に書き記している。僕が大川さんと知り合ったのも、この幕末に日本にたどり着いたフランソワ・ペルゴのおかげだったといえるだろう。
それというのも、毎年12月18日のフランソワ・ペルゴの命日に、横浜外国人墓地に眠っているフランソワの墓に、時計愛好家の有志で墓参するようになり、そこに大川さんも参加されるようになったからだった。
フランソワの墓は長らくその行方を知る人もなかったのだが、それがどこにあるかがわかり、当時のジラール・ペルゴ社のCEOだったルイジ・マカルーソさんが墓参に来てくれた時から、フランソワの墓への墓参が始まり、横浜元町にある時計店、コモンタイムの田中孝太郎さんを中心にして、やがて僕たちの年中行事になったのだった。
大川さんは明治初期にフランソワが日本に持ち込んだ時計を、いくつも探し出してコレクションされていて、毎年墓参の折に新しく見つけた時計を墓前に供えてくださるのだ。
そのうち、みんなで献花した後は、外国人墓地近くの元町のCAFEなどに集って、様々な話に花を咲かせるようになった。
ある年のフランソワ・ぺルゴの命日に行なわれたお墓参り。
写真の商館時計は、大川さん所有のコレクション。中央のジラール・ぺルゴは商談時に使用されるセールスマンウォッチで、実際にフランソワ・ぺルゴが使っていたと思われる希少なモデル。
僕も昔手に入れたウールマン商会の、金側のクロノグラフ機構を備えたポケットウォッチを持っていて、それを大川さんに見せると、ウールマン商会は当時北京や天津、上海などで盛んに商っていた商館で、日本に展開するのが遅かったためか、現存する時計は本当に珍しいらしいなどと、教えてもらったりもしたのだった。
その大川さんのコレクションを、いつか見せてもらいたいと思いながら、長らく果たせなかったのだが、今年の初めごろに、友人の柴田 充君と大川さんのお住まいを訪ねる機会を得て、その素晴しいコレクションを見せてもらうことができたのだった。
大川さんは実業家の家に生まれ育ち、時計への興味を覚えたのは小学生時代だったというから、かなり筋金入りの蒐集家だ。大川さんをとても可愛がってくれたという御祖母さんが何気なしにお土産として与えてくれたのが、彼の時計蒐集の始まりだったそうだ。大川コレクションの総数は聞きそびれたが、実に様々な時計が蒐集されていた。
時計の世界も輸入頼みの時代からしばらくたつと、国産化が進むようになり、日本独特の工芸の技を用いた特別なケースの時計なども作られるようになったようで、大川さんのコレクションにも、風景や様々な模様のニエロ象嵌などを施したケースのものがあり、その和風の絵画的なデザインを、僕はとても興味深く思った。
それらの中には、刀の鍔に施された異なる素材の金属で模様を描く技法などを用いたものがあった。
きっとそれらの細工をしたのは、明治になって布告された廃刀令に従い、刀の装飾品を作ることができなくなった、飾り職人たちの新しい仕事になったのだろうと想像する。
明治時代に懐中時計の輸入が始まり、その後ケースやダイヤルに和をモチーフとした装飾が施された懐中時計も製作されるようになった。
明治時代に懐中時計の輸入が始まり、その後ケースやダイヤルに和をモチーフとした装飾が施された懐中時計も製作されるようになった。
大川さんのコレクションは、これからも数を増やしていくに違いないが、このような貴重な歴史的資料を、いつか小さな博物館のような空間で、だれもが見ることができるようになれば楽しいだろうとも思う。
そのような博物館ができるなら、僕もいくつかの昔の時計を預けて、多くの人々に時計の世界の素晴らしさを知ってもらいたいものだと思う。
日本における西洋輸入時計の歴史を調べ上げ、後世に残る仕事をしてくれた大川さんもまた、時計世界の偉人の一人だと僕は考えるのだ。
写真/松山猛(時計)、岸田克法(人物、時計)
[時計Begin2023 WINTER&SPRINGの記事を再構成]