2025.01.24

〔全6回 特別連載企画〕ブランパンを、もっと。 

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第2回 ブランパンの歴史

今回の連載第2回では、今年2025年でブランド創業290年を迎えるブランパンの歴史について深掘りする。

ジャン=ジャック・ブランパンの工房「ファーム」。いまも実力派の時計メゾンが多く工房を構えるスイスのジュラ山脈。冬は雪一面となるひっそりとしたヴィルレ村に工房を構えた創業者のジャン=ジャック・ブランパン。彼は教師、農民、時計職人と3つの仕事こなす、多才な人物であった。

現存する世界最古の時計ブランド

1950年代のダイバーズウォッチとともに語られることが多いブランパンの歴史。しかしそれは同社にとってごく「最近」のこと。ブランパンの物語を知るには、1735年まで遡る必要がある。

創業者はジャン=ジャック・ブランパン。彼がスイス・ヴィルレ村の名簿に「時計職人」として登録したのがブランパンの始まりだ。ジュラ山脈の小さな村で教師を務める一方、農業を営んでいたジャン=ジャック。村が雪に覆われる農閑期に家の2階で時計製作をしていたことから、本格的に時計職人の道に入った。

ジャン=ジャックの孫、フレデリック=ルイ・ブランパンの時代にはヴィルレの工房が一気に近代化。新たな脱進機で超薄型の懐中時計も完成させた。

高級時計メゾン初の女性社長ベティ・フィスター(写真)は、1915年、16歳で見習いとしてブランパンに入社。その後は生産部門主任、そして技術・商業開発主任に昇格していった。フレデリック=エミール・ブランパン亡き後、1932年にセールス主任だったアンドレ・レアルとともに会社の経営権を取得。1939年にアンド・レ・レアルが亡くなると、 彼女は一人で会社を指揮することに。

1830年、フレデリック=ルイの息子、フレデリック=エミール・ブランパンが社名を「時計製造所エミール・ブランパン」に。ヴィルレ最大の工房が誕生した。

その後1世紀を経た1932年、ブランパン家7代目のフレデリック=エミールが亡くなると、彼の右腕として長年貢献してきたベティ・フィスターが社長に。彼女は、スイス時計業界初の女性社長であり、当時200人から300人の従業員を抱え、1950年までたった一人で伝統ある時計会社を率いた。

いまも受け継がれるコレクション「レディバード」。ベティの豊かな才能と際立つ知性は、ブランパンの大きな財産に。直径わずか11.85㎜のキャリバーR550を搭載したレディバードは、超小型でありながら5番目の歯車を加えることにより脱進機にかかるエネルギーを調整することを可能にし、テン輪にも耐衝撃性を加え、設計面での堅牢性を強化させた。そしてテン輪のサイズでも時計業界最小を記録したが、あまりに小さいために、22個の極小のゴールド製ネジで世界最小のテン輪を固定するという作業は、最も熟練した時計職人でなくては不可能であった。よってこの時計はブランパンの高い技術力を証明することとなった。技術的に優れている上に、華やかなジェムセッティングで、女性の社会進出を後押しした。

女性が活躍する時代を確信していたベティは1956年に世界最小の丸型ムーブメントを搭載した「レディバード(てんとう虫)」を発表。他社に先駆け、ハイレベルな技術でレディス・コレクションの拡充を進めていった。

ベティと同じく才能豊かな甥。1950年、ベティ・フィスターの甥であるジャン=ジャック・フィスター(写真)がブランパンに入社。スキューバダイビングの愛好家であった彼は、「ダイバーズウォッチ」という財産をブランパンに与えた。

1950年にはベティ・フィスターの甥であるジャン=ジャック・フィスターが合流。彼の活躍ぶりは第一回目で述べた通り。フィフティ ファゾムスで米海軍の信頼を得ると、米空軍には伝説のクロノグラフ「エアコマンド」を納入して高度な要求に応えた。

1953年に誕生した初代ダイバーズ。ダイバーズの金字塔を打ち立てた初代フィフティ ファゾムスは1953年の誕生。ジャン=ジャックの水中での経験が、時計の開発に大きく貢献した。

さらに進化したのがバチスカーフ。初代フィフティ ファゾムスが誕生した3年後の1956年には、早くも進化版ダイバーズのバチスカーフが誕生。日常使いできるデザインが話題になった。

2つの戦禍も乗り切ったブランパンであったが、このあとに訪れたクォーツショックには逆らえず経営状況に大きな影響を受ける。しかしスイス時計の威信をかけて、機械式復活のきっかけともなる複雑時計「シックスマスターピース」を1980年代に発表。その詳細は次回で解説する。

ブランパンヒストリー早見表

1735 ジャン=ジャック・ブランパンがスイス・ジュラ山脈の村、ヴィルレの村民名簿に時計職人として登録される。以後約200年にわたり、一族が継承。

1815 ジャン=ジャックの孫であるフレデリック=ルイ・ブランパンが、ヴィルレの工房を改築。新たな脱進機の設計で、薄型時計も実現。

1830 フレデリック=ルイの息子であるフレデリック=エミール・ブランパンが「時計製造所エミール・プランパン」に社名を変更。

1859 ルイ=エリゼ・ピゲがスイスのヴァレ・ド・ジュウ(ジュウ渓谷)に時計のアトリエを開設。彼が改修を行ったル・ブラッシュの古い風車小屋には、現在ブランパンの複雑時計およびメティエダールのアトリエが入っており、ブランパンの複雑時計のルーツに。

1932 ブランパン7代目のフレデリック=エミールが亡きあと、彼を長年支えてきたベティ・フィスターが時計製造会社初の女性社長に任命される。

1950 ベティ・フィスターの甥であるジャン=ジャック・フィスターがブランパンに入社。その後20年にわたり、ベティとともにブランパンに貢献。この時代に「フィフティ ファゾムス」 や 「エアコマンド」を開発。

1961 オメガ、ティソ、レマニアを傘下に置くS S I H(Société Suisse pour l’Industrie Horlogère)と合併。ブランパンは自社製品の開発に加え、S S I Hグループのムーブメントの製造拠点に。

1982 ルイ=エリゼ・ピゲの後継者、ジャック・ピゲがブランパンを買収。翌年、ジャン=クロード・ビバーを経営委員会の副会長に迎える。同年(1983年)、世界最小のムーブメントを搭載した「ムーンフェイズ」を発表。後の6マスターピースの発表に繋がる。

1991 「1735」を発表。6つのマスターピースのすべてを同一サイズの丸型ケースに収めて完成

1992 ジャック・ピゲが、スウォッチグループの前身であるS M H(Société suisse de Microélectronique et d’Horlogerie)に、ブランパンとフレデリック・ピゲを売却する。

2002 スウォッチグループの創業者であるニコラス・G・ハイエックの孫であるマーク A.ハイエックがブランパン社長兼CEOに就任。

2003 フィフティ ファゾムス アニバーサリーモデルとして限定復活。

2004 アンダーラグコレクターを開発(専用工具を使用することなく指先でカレンダーを調整できる特許取得の機構)。

2007 フィフティ ファゾムス レギュラーモデルとして完全復活。

2010 ブランパンの複雑ムーブメントの開発を担ってきたル・ブラッシュのアトリエ、フレデリック・ピゲ社がブランパンに完全統合される。

2022 ブランパンを含む複数の時計ブランドのケースを供給してきた1975年創業のサイモン&メンブレス社をブランパンに統合。

 

THE AIR COMMAND Collection

エアコマンド コレクション

米空軍に納めた1950年代のクロノグラフが、高貴な意匠を受け継ぎ復活。

「エアコマンド 42㎜」。文字盤上のカウンターやガラスボックス式サファイアクリスタル、タキメーター目盛りの配置やピストン式クロノグラフプッシャーの形状などはオリジナルを想起させるデザイン。両方向回転ベゼルには、ダイアルと色を合わせたブルーセラミックのインサートをセット。時計製造ではめったに使われることのない高品質なグレード23のチタンをケースに使用。ケース厚は13.7㎜。自動巻き。50時間パワーリザーブ。3気圧防水。径42.5㎜。グレード23チタンケース。カーフスキンストラップ。AC02 12B40 63B。304万7000円。

フライバック機構を備えるキャリバーF388Bを搭載。毎時3万6000振動(5HZ)のハイビートを垂直クラッチとコラムホイール機構で制御。

■エアコマンドのバリエーション

F388Bムーブメント。50時間パワーリザーブ。3気圧防水。5HZ。径42.5㎜。ケース厚13.77㎜。グレード23チタンケース&ブレスレット。AC02 12B40 98S。335万5000円。

F388Bムーブメント。50時間パワーリザーブ。3気圧防水。5HZ。径42.5㎜。ケース厚13.7㎜。18KRGケース。カーフスキンストラップ。AC02 36B40 63B。490万6000円。

F188Bムーブメント。40時間パワーリザーブ。3HZ。径36.2㎜。ケース厚:11.5㎜。18KRGケー。カーフスキンストラップ。AC03 36B40 63B。469万7000円。

F188Bムーブメント。40時間パワーリザーブ。3HZ。径36.2㎜。ケース厚:11.5㎜。チタンケース。カーフスキンストラップ。AC03 12B40 63B。286万円。

ブランパン公式サイト

 

文・構成/市塚忠義