2022.03.15

パネライ復興のキーマンにして情熱あふれる「ミラネーゼ」【松山猛の時計業界偉人伝】

Angelo Bonati アンジェロ・ボナーティ

イタリア、ミラノ生まれ。リシュモン グループのフランコ・コローニ氏に招聘され、2000年から2018年までオフィチーネ パネライのCEOを務める。巧みなブランド戦略でパネライの復興に大きく貢献した。

 

パネライ復興のキーマンにして情熱あふれる「ミラネーゼ」【松山猛の時計業界偉人伝】

松山さんがこれまでに出逢った時計界の偉人たちとの回想録。
今回は、パネライを復興させた元CEOのアンジェロ・ボナーティ氏。

 

フィレンツェから生まれたパネライの由来とは

パネライの再興に力を尽くした、一番の立役者といえば、アンジェロ・ボナーティという人物だろう。

芸術と科学の街フィレンツェの、小さな時計工房が、第二次世界大戦の前に世に送り出した、高い防水機能を誇るイタリア海軍のフロッグマンのための時計「パネライ」。

その存在を知ったのは1970年代の半ば頃のことだった。

確か最初にこの時計を紹介していた記事は『タイム・スペック』という、日本で初めての腕時計専門誌だったと記憶する。その時驚いたのは、その時計にはスイスの、ロレックス社製のムーブメントが使われているという記述だった。

すぐにその謎は解ける。

フィレンツェのオフィチーネ パネライ社では、早くからイタリアでロレックス社の時計の優秀さに気付いた、初代経営者ジョバンニ・パネライが、ロレックスの時計を輸入販売しており、そのようなつながりから、ロレックス・ムーブメントを使うことができたのだろうということであった。ご存じのようにスイスは永世中立国であり、それゆえ体制の異なる様々な国に、時計を供給することが可能だったのだ。

その特殊な時計に、ポケットウォッチのためのムーブメントが使われていたのも印象的だった。軍事作戦には正確な時間の読み取りが必要だからである。

大きなムーブメントを包み込む、重厚な防水仕様のケースは、いかにも軍用という感じで、その佇まいからもヘビーデューティさが伝わってくる。

そんなパネライ時計の写真を見ていて、子ども時代に映画好きの父に連れられて見に行ったある映画のことを思い出したのだった。

それは地中海のジブラルタル港に停泊していた、イギリス海軍の戦艦などを、イタリア海軍の特殊潜航部隊のフロッグマンといわれていた兵士が、マイアーレ(豚)と呼ばれた、二人乗りの水中スクーターのようなものに乗り、機雷を仕掛けて爆破しに行くという、史実にもとづいた『人間魚雷』という映画だった。モノクローム映画の中の、アクアラングの形や、フロッグマンの身に着けていたものが、60年以上経た今でも、鮮明に印象に残っているのも不思議なことだが、確かにそのフロッグマンたちは、深度計や潜水時計を身に着けていたように記憶している。ひょっとしたら、その映画の小道具としてパネライの時計や深度計が使われていたのかもしれない。

また『巨艦いまだ沈まず』という映画でも、アレキサンドリア港に停泊しているイギリスの戦艦ヴァリアントを爆破するため決死行をする、フロッグマンの姿が描かれた。

『タイム・スペック』にパネライの記事が掲載された後、ミリタリーものが好きな人々が、この素敵な歴史を持つ時計への興味を抱き始め、おそらくイタリアにはそれ以前から軍関係者や研究者など、この時計の情報を知る人がいただろうが、この時代から、急激にコレクターアイテムとして、パネライの人気が上昇したように思う。

1990年代の終わり頃バーゼルフェアでの邂逅

そのパネライが復興を遂げ、現物を初めて見ることができたのは1990年代の終わり頃で、確かバーゼルフェア会場の5号館に出展されていた、一間間口くらいの小さなブースのウインドウ越しのことだった。この時代はヴァンドーム・グループ(現在のリシュモン グループ)が傘下に収める前だったから、1997年くらいのことだったと思う。

最初期のロレックスの腕時計と同じような、クッション・スタイルのケース。確かにユニークなデザインと、圧倒的な存在感を、その時計は持っていたのだった。ちょうど時代は「デカ厚時計」が流行し始めた頃で、そのスタイルにはすぐに時計ファンの心をつかんでいく予感を持った。

パネライを買収した、グループのトップであるルパート氏から、アンジェロ・ボナーティ氏がブランドの再構築を命じられたのは、1997年のことだったようだ。ボナーティ氏が、あるインタヴューで述懐していたように、最初はアシスタントもおらず、オフィスには彼の机と椅子だけというスタートだったそうだ。

だがパネライというブランドには確固たる資産があった。それこそがルミノールに代表される、完成度の高い一群の時計だったのだ。

彼が抜擢されたのは、それまで彼がカルティエのイタリアにおける販売責任者であり、イタリアのマーケット、とりわけ各地の小売店を熟知していたから、そして何よりガッツのある男だったからであろう。

A.ランゲ&ゾーネがドイツ再統一のシンボルのような時計ブランドとして甦ったように、パネライにはイタリア人の母国愛をくすぐる要素がたくさんちりばめられていたのだと僕は思う。ドイツや日本と共に枢軸国として敗戦の哀しい歴史はあれ、イタリアもまた第二次世界大戦の前には、優秀な戦闘機や爆撃機などを製造する技術大国だったし、自動車の世界では世界に冠たる、魅力的な車を生み出し続けてきた歴史がある。

前述したようにフィレンツェという都市は、ルネッサンス発祥の地であり、芸術と共に科学が発展した地でもある。その郊外で天才レオナルド・ダ・ヴィンチが生まれ、ガリレオ・ガリレイが天文学を追究し、振り子時計の原理を完成させている。

また14世紀にはジョバンニ・ドンディが高精度の天文時計を完成させるなど、フィレンツェはまさに科学の揺籠であったのだ。

ボナーティ氏はいかにしてパネライを復興させたか?

さて、新しい使命を帯びたブランドのスタッフとして、ボナーティ氏は最初のシリーズとして1000ピースの時計製造を企画し、実行に移す。彼は完成した時計を鞄に詰め、カルティエのセールスで見知っていた小売店を積極的に訪ねて、パネライのセールスを始めた。中には直径44㎜もある時計を見て、これは大きくて重いよ、売れるとは思えないね、というような反応もあったそうだが、まずイタリア国内の30のセールス拠点を確保したところ、すぐに好反応が表れ、1000ピースの時計は売り尽くされるという驚きの結果となったのだ。

その頃だろうか、ミラノの老舗時計店グリモルディを訪れた時、時計好きとみられる男性がパネライ時計を購入し、実に嬉しそうな満足感あふれる表情で、時計を持ち帰るのを見たのは。そして1998年、パネライはS.‌I.‌H.‌H.にデヴューを果たし、そのブースには世界中からジャーナリストや時計店の人々がおしよせるようになったのだった。

ボナーティ氏は2000年にパネライのCEOに就任し、まさにブランドの顔として、この歴史ある時計ブランドを、さらに発展させる責務を負うようになり、持ち前のビジネスセンスにより、ブランドイメージを確立していく。2011年5月に、ガリレオ・ガリレイの生誕年を記念する、一大イヴェントが上海の現代美術館で開催された時、僕はワイフと共にお招きにあずかり、それではとそれをテレビ番組に仕立てることにしたのだった。

横浜のテレビ神奈川のクルーと共に上海入りし『時間、与、空間』という、ガリレオ・ガリレイの天文学へのアプローチや、ガリレオが作ったとされる望遠鏡や振り子時計のレプリカなどと共に、歴代のパネライ時計の展示があり、そして新しく作られた球形の機械式のプラネタリウムなどにより充実したエキシヴィションとなったのを、『フィレンツェ時計物語パート2、ガリレオへのオマージュ』と題した30分番組として纏め、放送した。開幕のイヴェントでは、フィレンツェからガリレオ博物館の館長がスピーチするなど、とてもアカデミックな雰囲気の、素晴らしいイヴェントとなり、ボナーティ氏も満足そうだった。

海に関わる時計ということから、パネライではヨットレースなどのスポンサードなどを積極的に行ってきたが、最も印象に残っているのは、歴史的な木造ヨット、アイリーン号の取得と修復である。1930年代にイギリスで建造されたこの優美な全長23mのヨットは、その後何度も大西洋を横断したのち、カリブ海のアンティグアに、劣化した状態で放置されていたという。そのアンティグアで2006年にヨットレースが開かれた時、ボナーティ氏はアイリーン号と非常に劇的な出会いを果たし、それを買い取り、本来の美しい姿に修復することを心に決めたのだそうだ。

老朽化したデリケートな船体を、慎重にマルティニーク島へと運び、修復プロジェクトが始まり、2009年に完璧に修復されたアイリーン号は、再びその優美な姿を海に浮かべた。

ボナーティ氏はこうして約20年の長きにわたり、パネライという稀有な存在である時計ブランドを、新しい時代にふさわしいブランドとして育て上げたのちに、静かに後進にそのCEOの席を譲り、引退したのだった。

彼もまた時計世界に、大きな足跡を残した偉人の一人だと僕は思う。

オフィチーネ パネライは2002年にスイス、ヌーシャテルにマニュファクチュールをオープン。同年、独特のリューズガードを装備するメゾンの代表コレクションの一つである「ルミノール」の誕生記念限定モデルも発表された。

 

[時計Begin 2022 WINTERの記事を再構成]
文/松山 猛